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後藤由紀恵歌集『遠く呼ぶ声』を読む

   蛇口はた床や言葉の少しずつゆるむ家にてちちははと暮らす   地下鉄に席をゆずられ老いてゆく父のコートや母の帽子も  我が家も築年数三十年すぎて補修が必要になってきた。今は簡単にクラックを充填できるキットが通販で手にはいるから便利だ。思えば自分も家族も歳をとり、この家は強風にあおられることもあったし、東日本大震災でもかなり揺れたので歪みは出てくるだろう。年月の経過は自分自身ではあまり気づかず、家を補修したり、家族が歳を重ねたときに気づくことが多い。それはネガティブなことではない。引用した一首目のように家族とは言葉も、関係性もどこかゆるんでいき、年月をともに過ごす存在として、良いことも厄介なことも混在しながら生きていくことになる。二首目、コートや帽子はしっかりしたつくりのものなら何シーズンももつ。父のコートや母の帽子といままで目にしてきたものを通じて両親の老いを感じている。この歌も所有物から所有者の老いを感じているが、たとえば地下鉄で席を譲られ父母が座ったときに、主体は座らず見下ろすかたちになったときに、その父母が小さく見えた、もしくは席を譲られたという話のあと、片付けや掃除をするときに掛けてあるコートや帽子を目にしたという場面が想定される。いずれも主体と両親の位置関係の変化があり、ある時間が込められている歌だ。   砂丘より遠く離れし冬の朝われは生まれし母の子として   たましいの暑気払いなり大瓶のキリンビールを祖父に酌みたり  前の歌で砂丘を背景に写真に写る若き母の歌がある。母のなかに内在している風土や時代から離れたところにある自分の立ち位置を自覚する歌である。本歌集は家族の歌に深さと広がりがあり映画をみているようでもある。次の歌は墓参の連作の一首で、法事と瓶ビールという組み合わせでどこか懐かしさを感じる。祖父は父母よりは主体から心理的に距離があり、暑気払いという言葉の斡旋にどこか縁者の集う賑やかさを感じる。   土砂降りのように泣くことなくなりて時間はまるく繭のかたちに  本歌集は三十代から四十代に移る時期の歌が収められているという。公私ともに中堅層の年齢であり、自らの人生であと何が出来、何が出来ないかわかってきたり、人生においても社会においても責任ができてくる歳でもある。毎日を積み重ねていくと、人にもよるが、二十代のときとは異なる安定感が出てくる。時間が繭

ローマの亡霊 坂井修一のアルキメデスの歌を概観して

    アルキメデス殺《ごろ》しの紅顔兵卒もわれも沈丁の香にまみれをり 坂井修一『群青層』    作歌時期は章立てによると一九八六年夏から一九八九年春にかけて、あとがきによると坂井はつくばの電子技術総合研究所で研究生活を送っていたころの歌である。社会的弁証法的な主体としては国内では〈霞ヶ関通産新館ビル階段歩み暗然として牧歌調〉、アカデミックな分野では〈アメリカはいまだ羨しきおそろしき白き大足にわれを跨げり〉の歌が目に留まる。このころの坂井は研究者として省庁や海外の研究機関とも関わっていたのだろう。さて、アルキメデスは第二次ポエニ戦争でローマ兵が自宅に入ってきたときに、砂盤に描いた図形のまえで思索しており、ローマ兵が名を聞いたものの答えず、殺されたとされている。引用歌において、アルキメデスは純粋な知の象徴でローマ兵は帝国主義の末端。つまり、知が帝国主義に侵されるという構図である。われはアルキメデスなのかと思いきやローマ兵と同じ沈丁の香にまみれているという。坂井は自身に日本の情報技術の発展、開発において或る権威があることに自覚的で、あえてアルキメデスではなくローマ兵の側に主体を立たせ内省的に詠ったのである。   鳴れや鳴れ部屋の留守電、外《と》のチャイム ああ政治家よ†「わが円を踏むな!」 『縄文の森、弥生の花』    †アルキメデスはこう抗議して兵士に殺された    アルキメデスは『縄文の森、弥生の花』にも詠まれている。実に二十二年越しのアルキメデスで引用歌では戯画的に描かれている。アルキメデスは作中主体、ローマ兵は政治家である。舞台の一場面のようにそれぞれに役が割り当てられており、配役は若干異なるが、『群青層』が観客席側からみた景色だとすれば『縄文の森、弥生の花』は舞台裏もしくは袖のバタバタした感じがある。研究者としても歌人としても責任は増して、社会的立場も高くなる一方、仕事量もそれに応じて増えるようだ。アルキメデスの最期は権力が知を侵害することの最たる出来事であり、風刺劇のように詠う。     甲冑の軋みて寄する朝まだきアルキメデスはコンパスを振る 「かりん」(二〇二三・一〇)    十五年経ったアルキメデスの周囲には甲冑の音が鳴っていた。四〇年弱かけてアルキメデスの最期は徐々にリアリティが増し、とうとうローマ兵の甲冑の

睦月都歌集『Dance with the invisibles』を読む

  どうも薄曇りの日に読みたい。天気のよい午後でもいいのだが、装丁の雰囲気からか、先入観か、ふさわしい天候を待った。お供は紅茶がよさそうだが、あいにくそんなコジャレたものは常備しておらず、とりあえずインスタントコーヒーを氷水に溶く。   簡潔に雨降りて止む朝ありて瓦斯火にパン切りナイフかざせり  天候が気になるのはきっと書店でぱらぱら頁を捲ったときに雨の歌が目に入ったからだろう。サブリミナル効果というやつか、それなら効を奏したというべきで、今日は歌集にとってよい読書日和だ。秋、瓦斯火にパン切りナイフをかざしてトーストを切りたい日だ。   けはひなく降る春の雨 寂しみて神は地球に鯨を飼へり  雨といっても春の雨の歌もある。春の雨は秋の雨と違い匂いがあるし、光を湛えている。秋に引用歌を読むから春の雨が明確にわかるともいえる。にわか知識で人間は神に似ているらしいことは知っているが、神にとって小さい鯨は可愛らしくまた頭もよいので飼うのに退屈しない。青い小さな地球をすいすいと泳ぐ金魚くらいのサイズ感の鯨、神に共感できる。   円周率がピザをきれいに切り分けて初夏ふかぶかと暮るる樫の木   煙草吸ふひとに火を貸す 天国はいかなる場所か考へながら  円周率の歌は初めて読んで以来記憶に残っている歌で、以降ピザをみると円周率をまず思い起こす。歌ではピザに円周率が潜んでいたのだが、世界の至るところに円周率はある。先述の神同様に、ピザに汎神論的な存在感がありつつ、下句は静かに短歌的に結ばれる。次の歌も煙草の火を貸す情景か、贈与する動作に天国との類似性をぼんやりと考えている。いずれも歌を目の前にして、歌と同じことを考えさせられる。案外結論は出ず、煙草の煙のようにその思考は宙を漂う。   コンピューター・チェスの次の手を考へてるこんな小さな湯船のなかで  ディープラーニングや生成AIが話題に出る昨今、ボードゲームのAIは古典的なものといえそうだ。ランダムな手のトライアルアンドエラーをシミュレーションで繰り返しながら最善手を模索するモンテカルロ法というものだ。ものによっては尋常じゃなく強いが、古いソフトには素朴さがある。脱線したが、小さな湯船のなかでコンピューター相手にチェスをすることは一つの世界の創造だと思う。いささか恣意的に歌を引用したが、歌集をとおして世界のなかに世界がある感覚を面白く読