投稿

1月, 2024の投稿を表示しています

臥遊の反復性と空穂の歌について

盆栽の槻の深林《しんりん》わか葉してわが目に近くこころ引き入る 窪田空穂『木草と共に』 尺《しやく》に足らぬ槻の深林《しんりん》おぼろげに木下路《こしたみち》あり目をもて辿る    臥遊という言葉を知ったのは、出光美術館で山水画を見ていたときだったと思う。デジタル大辞泉では床に伏しながら旅行記を読むことや、地図や風景画を眺め自然の中に遊ぶことで、中国の故事に依ると解説されている。臥遊を念頭において山水画をみる。描かれている山道や湖水にかかる橋などを目でたどり、切り立った崖に茂る木々や新鮮な空気を思い浮かべる。さらにもう一歩、絵の中へ、急で延々と続く斜面や湖の少し苔臭い、果てない旅程に少しげんなりし、足腰のだるいことも想像する。何度か試みていると結構たましいを山水画のなかに飛ばせるので面白い。 空穂の歌は槻木の盆栽で臥遊をしている。小さな空間で悠久の時間を湛えた樹木の象徴をつくりだす盆栽の鑑賞の仕方として、臥遊を無意識にしている人は多いだろう。空穂は一首目で盆栽の若葉を愛でているうちに、盆栽の小世界に引き込まれていく。二首目で盆栽の世界にたどり着き木下路を歩いている。目をもてというのが少し説明的だが、ないと臥遊という概念が念頭にないとわかりにくい歌になってしまい仕方ない。『木草と共に』のときの空穂はもう高齢で身近な風景を題材にした歌が多くなるが、庭や盆栽に自然を感じ、旅情を満たしていたのであろう。その静かで満たされた世界と、穏やかな知的好奇心があるところに老いた空穂の人間的な部分が出ている。さて、盆栽の小世界を旅装いの空穂が歩くところを想像すると、さながらこの歌は山水画のようでもある。そして歌を読むことで読者も臥遊をしているような気分になる。 山水画が描かれること自体が臥遊であり、その山水画の無数の鑑賞者が臥遊する。その過程で新たな絵画や庭、盆栽、紀行文、詩歌などが生まれ、鑑賞者の旅情を惹きたてる。空穂の歌もその延々と続く反復性のなかのひとつであるのかもしれない。

空穂と惑星的思考の純粋性について

  命一つ身にとどまりて天地《あめつち》のひろくさびしき中にし息《いき》す 窪田空穂『丘陵地』    空穂を代表する歌で天地という大きな景にぽつんと自身が存在するという読みが一般的だろう。近代以降に自我が文学の主題になるに際して、世界との対比は自我を際立たせる方法の一つでもある。また空穂はキリスト教を信仰していたことを加味しながら、天地という俯瞰した視点は神を意識しているという読みも作家論的には有効である。  改めてこの歌を読むと自我の問題だけではなく、もう少し天地について一考の余地があるように感じる。例えば惑星的思考というものがある。 G ・ C ・スピヴァクが提唱したもので、コロニアリズムやネーション等を超えて、地球という惑星上の一生物まで人間を還元する考え方である。グローバリズムにヘゲモニカルな側面がある反面、惑星的思考はそうした力の不均衡から解放されている。したがってポストコロニアルな文脈で語られることが多い。惑星的思考について具体的なイメージを描くときに、一生物としての人間、または自分自身を設定し、カメラがズームアウトしていくように宇宙空間からみた地球を想像することになる。空穂の歌に戻ると、天地のなかに「ひろくさびしき中」に息する「命一つ」のわれが存在するという内容が、惑星的思考の先程の具体的なイメージに類似している。スピヴァクは惑星的思考を、ジョン・ロールズの無知のヴェールを超克し、その先にある正義の概念として想定する節がある。つまり惑星的思考のポストコロニアルな文脈は、ポスト(のち)よりもアンチに近いのである。一方で、空穂の歌にそのような鋭敏さや切なる主張はなく、批判というよりむしろ解放に近い。戦争や人生の辛酸を舐めつくしたのち、魂を世界に解放して惑星的思考に至る。レヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』を想起すると「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」であり、惑星的思考は、コロニアルはもちろんのことポストコロニアルのような人事ともほど遠い概念なのかもしれない。空穂の歌には人間、人という言葉が出てこない。命一つという把握は人間中心主義から脱却しており、また社会批評的な人間臭さもない。勝手に惑星的思考の純粋性があると仮定するならば、空穂の歌は結構当てはまるのではないかと思っている。

ドラゴンイヤーの歌 「うた新聞」(二〇二四・一)を読む

   山中の隠居気取れど気乗りせぬ仕事も受けて師走も半ば 大下一真   二歩《にふ》打ちて嗤うほかなき敗局も忘れる強さ素人にあり   手を伸べて取りいだしたる物体の輪郭を撫づ まあ、ハンドベル 春日いづみ   盲目のアテンドにワインを注がれて支払ふコインの穴や大きさ  「うた新聞」(二〇二四・一)の第一面の巻頭作家は大下一真、春日いづみでどことなく年末年始感がある。大下の歌の一首目は、僧も走るほど忙しい時期である年末を僧の自らに引き付ける諧謔がある。結社運営や「方代研究」など仕事は多くもたれており、年末ではなくとも走るほど多忙を極めていると思う。二首目は素人には将棋で二歩を家負けても嗤って忘れる強さがあるという意味だが、反語的にでは玄人はどうかという問題が提起されている。将棋に限らずだろう、どこか玄人は態度が堅くなり却って上手くいかないことがある。具体的に何かに当てはめていくとキリがないような視点だ。春日の歌はキリスト教を信仰していることを踏まえて読んでいくと、視覚障害の体験の一場面の歌であってもハンドベルに教会やクリスマスのイメージが喚起される。二首目は視覚障害の体験や、視覚障害者が従事するレストランで食事、会計することで健常者がもつ世界観をたとえば硬貨から解体する。硬貨はコインであり手触りがある。この小さく卑近で具体性のあるモチーフが説得力になる。作品としての読みどころはもちろん、季節感もあり二人の作家を一月号の巻頭作家にしたという選定に編集のセンスがみられ面白く読んだ。  巻頭評論は田村元の新春エッセイで斎藤茂吉が立ち小便で捕まったことや植松壽樹が酔っ払いどぶに落ちたことなどを、それぞれの歌人のエッセイや日記から紹介し、「生身の人間のすったもんだの中で生み出されるからこそ共感できる」のであってAIやアルゴリズムで生まれた歌は読みたいと思わないと述べている。結論に二〇二四年に生まれるエピソードに期待している。新型コロナウィルスが五類になって社会活動がコロナ前水準に戻ってきた年が二〇二三年、それ以前はそうしたエピソードがあっても意識的にも無意識的にも自粛してしまい表に出にくかったと思われる。年始らしい気分になる。  特集の一つは「辰年アンケート」で辰年の歌人が二〇二三年の秀歌三首、新春エッセイ、「辰(龍)」を詠んだ自作一首を寄せている。辰に望みを託す歌が多く、空を

富田睦子歌集『声は霧雨』を読む

   ぱたりぱたり髪は髪ゴムくぐりゆき風のうまれる五月の背中  歌集のなかで子の歌が印象的だ。いや子というより母と娘の歌といったほうがいいかもしれない。髪をゴムでしばるのは母、ぱたりと髪が何度もゴムをくぐる、この日常の風景を慈しむところが春風や五月という気候のいい身体に表れている。   広がれる宇宙についての不安など抱えはじめる、思春期と呼ぶ  家族にもよるが母と娘は父と娘の関係より共有するものが多い。宇宙の不安などは性差なく考えることだが、子の話を聞きながらかつて自分も同じことを考えていたことなどを話すのは同性、母と娘のほうが近く聞けるかもしれない。歌では子の不安を聞くだけではなく、自らも子の感情を少女期の自分の感情に重ね合わせ追体験している。   バス停よりナナフシのかげ曳きながら吾子の顔してあゆみくるもの   少女らも稚魚らもひとりひと粒のこころ灯らせ群れては散りぬ  一首目のナナフシは枝に擬態する昆虫であり、吾子の顔してあゆみくるものという表現においても子がやや突き放されたように詠われている。家族の顔、学校での顔、友人関係の顔とそれぞれ顔があるのは当然ということは折り込み済みであっても、歌の場面の子の顔に違和感を感じている。まるでナナフシが擬態を生存戦略としたり、またか細い姿であるように子に存在的危うさを感じてしまう。二首目では少女らを稚魚に例えている。稚魚も川や海のスケールに対しては小さい存在で半透明な姿にもおぼつかなさもある、そして生存率も低い。しかし、しっかり生きていきやがては成魚となるのである。子、または子の周囲にいる少女と自分自身との存在の確かさに距離があるときに、小動物の比喩が使われるようだ。小動物という身近だが距離のあるモチーフが比喩として適当なのだが、比喩元の小動物に対しても情が厚い。ちょうどよいモチーフというだけでナナフシや稚魚が引っ張られてくるのではなく、それらは体験に根差した小動物で、記憶のなかでいとおしさがあることが伝わる比喩だと思う。   真直ぐな脚をさらして塑像立つわが少女期よりさらにさびしく  塑像の背景には無数の少女がいる。そのなかに子も含まれる。下句でわが少女期よりさらにさびしくとあり、一見塑像と主体に線が引かれているが、塑像に自らの感情を投影しているのはやはりどこか共感する部分があるからである。過去と現在を貫く少女性が子や