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千葉優作歌集『あるはなく』を読む

   ひつたりと冷奴あり、かつてかく陸に上がりしわれらの祖先   ハンガーは何も言はずに吊るされてかくも静かな労働がある   人生の転機は鍋に茹でらるる海老が色づくやうに来るのだ  歌集全体に抑制された抒情と、真面目で丁寧な視点が通底している。あとがきに大まかな編年体とあるが、冒頭の引用歌は歌集の前半に配置されており、一首目の奇想などは若々しい想像力がみられる。冷奴のような脆く実態が掴みにくいものを人類の祖先と奇想することで、自分を含めた人間存在の危うさを詠っている。冷奴が海から陸上に這うような景色を想像すると滑稽で、ユーモアもある。二首目は若い会社員の抒情である。ハンガーという自らの肩の代わりとなものを見て、ハンガーがジャケットなどの衣類の形を保つことを労働といっている。ハンガーに物言わず働くわれを仮託した歌とも読める。いずれの歌も時代や社会に違和感を感じつつも、明確にアンチテーゼを述べることは避け、自己を抑えつつ違和感を表明している歌。前半の歌はなかには言葉が走りすぎてしまう歌もみられるが、先述のように静かに葛藤している歌が瑞々しく面白く読んだ。中盤に差し掛かると三首目のような歌もあり、人生の転機という重大な局面を茹で海老に準えた眼目が面白い。色づくということで気分が高まる感じがするが、鍋で茹でられる辺りはまな板のうえの鯉のようでもある。   春といふやさしきもののかたちしてましろき蕪の売られてゐたり   本を買ふために下ろした千円がビール二杯に生まれ変はりぬ   ゆらぎつつ燐寸の先に火は点もる野生にかへりたいかおまへも  形のないものに形を与えるような歌を引用した。一首目は上句が大掴みで普通なら歌が甘くなるところをましろき蕪という的確な比喩でまとめた歌である。ちょうどよい比喩の距離感で、これ以上飛躍しすぎると却って甘くなる。比喩として蕪は絶妙と思う。二首目は文学を愛する主体と、本の購入予算がビールに変わってしまうというユーモアのある歌。本文冒頭でも述べたが千葉は意識的にユーモラスな歌を読んでいるように思う。栞文で江戸雪が自己をこの世へ押し出さない生き方を感じさせると解説しているが、千葉のユーモアに通じるものがある。三首目は下句で葛藤やユーモアだけでは処理しきれない熱情のようなものを、マッチの火に託しているような歌。その熱さは次の社会詠などからも読みとることがで

鈴木加成太歌集『うすがみの銀河』を読む

   あきかぜのプールの底は鍵・銀貨・みなみのかんむり座などが沈み  どこかで第一歌集は作者の性質を強く表すという評論を読んだ覚えがある。第一歌集に限らず、初期作品は作者の性質を強く表すとすれば引用歌はまさに鈴木の言葉の感性を感じる一首だ。あとがきを読むと鈴木が十七歳ぐらいの作品だということがわかる。秋のプールは役目を終え静かに落ち葉などを浮かべているのだろう。気候的に藻などもなく水も透明だと思う。空気もからっとしていて爽快な気分でプールのそばを何気なく歩くと、われの知らないところで、鍵、銀貨、みなみのかんむり座が沈んでいるという。どれも水に沈む重みがあり、光沢もある。沈んでいるそれらは一度持ち主の手を離れたら忘れられがちである。鈴木は三つの素材の共通点をたどりながら星座までいきつく。本当の星座が沈んでいるのであるという奇想として読んでも面白いし、たとえば沈んでいるものが他にもあって星座を成しているという風景を想像しても歌の美的な世界を損なうことはないし、連想事態が星座のような軌跡を描いているという読みも深読みながら成立するだろう。また、秋の日の光でさも銀の品々が沈んでいるかのごとくプールの水面が光沢を帯びて揺れているという景色も思い浮かべることができる。言葉の選択の妙がこの歌の眼目だが、鑑賞が尽きないほど魅力がある。   冬の薔薇浸せる水がうっすらとオフェリアの体温にちかづく   地下書庫の扉を押せば古い闇がガガーリンと音をたてて閉まりぬ  オフェリアやガガーリンという名前をさらっと出しつつも理屈っぽくならないのも特徴的だ。ジョン・エヴァレット・ミレーの描いた『オフィーリア』は花とともに川に浸かっている絵画で、この一首を読んで多くのひとがその絵を想起するだろう。オフェリアを薔薇と結びつけた力業をみることができる。〈うっすらと〉と一語いれると歌がゆったりとし、歌が理知的になりすぎない。冬の薔薇やオフェリアという強い言葉だけではなく、うっすらとというゆったりとしつつも繊細な言葉も必要に応じて斡旋することができる。次の歌は人類初の宇宙飛行士ユーリィ・ガガーリンの名が扉を閉める擬音語として使われておりユーモラスである。擬音語としてもガガーリンが登場すると地下書庫が宇宙めいてくる。宇宙には最先端の科学をもってして人類は進出しているが、宇宙自体は太古からあるものである。そう考

春日いづみ歌集『地球見』を読む

 表紙のジャコメッティの彫像と歌集名の『地球見』が絶妙に合っている。詠うこと、書くことはつまるところ地球を見ることなのかもしれないと、時代や自らの生を映し出す本歌集を読んだあとに思われた。   ポスターの糸杉あをく焔《ほむら》立ちわれは躓《つまづ》くその糸杉に  ゴッホの絵を思い浮かべるのが一般的だろう。糸杉の存在感に躓くという表現に絵画が気になる様子が身体感覚を伴って表現されている。糸杉の絵の芸術性や霊性のようなものに躓くという歌意だと思いつつも、杉の丸太のようなものにも躓き得るため、すらりとわかるような自然な比喩表現となっている。   拾ひ来し松笠リースに飾りつつイエスも産声あげしを思ふ   標的は古都ダマスカスああパウロが目から鱗を落とししあたり  信仰からくる歌が多いのも本歌集の特徴である。一首目は松笠やリースという素朴な素材から、純粋にクリスマスを楽しむ生活者の視点が前面に出ている。その最中ふと聖誕祭であることを思い、そしてまた生活者的な産声に思考が移っていく。次の歌はシリアの空爆の歌で、パウロが目から鱗のようものが落ちたという聖書からの引用もあり一首目と対照的にも信仰に寄っている。空爆の下には古都とそこに住む住民がおり、命や信仰は武力により蹂躙される。その蹂躙に対して歌や信仰から問題提起するという意図があるように思われるのは、〈萎縮すな自由に詠はむ 否すでに萎縮してゐるわれにあらずや〉という歌も本歌集に収められているからである。世界は驚くべきほど日々多くの情報が更新される。戦争、災害、不覚にも引用歌を読んで筆者は、そんなこともあったなと思ってしまった。歌は忘れかけていた武力介入を思い起こさせ、忘れてはならないと暗示するようである。   影長くわたしは痩せてゆらり立つ春の海よりはろばろと来て  巻末の連作から引用した。影長くはジャコメッティの彫像を彷彿とさせるが、春の海よりはろばろと来るというのも不思議な感じだ。海からはろばろと来るのは人間以外の存在のようにも思える。時代や状況は荒々しく早く流れていく。その暴風のようななかに、詩歌、文学あるいは信仰が痩せてしまいつつもゆらりと存在している、そんな風にこの歌を読んだ。

2022年11月の日記

 2022/11/1  庭師の方にだいぶ庭木を剪定してもらう。両祖父は庭木をぎっしり埋めるのが好きだったらしく鬱蒼としていたが、少しすいてもらった。いまはムラサキシキブ、ツワブキ、アメジストセージが咲いている。墓参する。徐々に彼岸に家族が増えていくが自分の名前ももう赤い字でいれてしまおうかと思ったりする。このまま独身で私が死んだら最後に誰が線香を墓に手向けるのだろう。昼は万葉の詩という創作イタリアンを楽しむ。アクアパッツアが絶品だが今日はビーフシチューにする。かりん前月号鑑賞を書き始める。引用歌は事前に選出していたので筆が早い。明日は小春日和らしい。乗り越えて明後日の休みに突入したい。 2022/11/3  小春日和で庭に出ると心地よい。モンキチョウや蜂が飛び通ういい日取り。石蕗の花は秋の昆虫の需要を満たすらしい。挿し木にしていた槇が根付いたので鉢に植え、新たにまた槇のひこばえを挿し木にする。  久しぶりに菊富という地元のとんかつ屋にいく。  航空公園は家族連れが車で殺到し違反駐車も列になっている。全部罰金をとり市民サービスに還元するなどすればいいものを。  水星の魔女を視聴する。ディランザは結構好きだ。高機動型ザク、ドム、リックディアスと脚部にスカートがあったりホバー走行する機体が心に刺さる。 2022/11/5  昨晩は何故か歌が一気に十首できた。作品自体も発表前には多少推敲は必要なものの内容的にはいい気がする。文学批評について考える。大学、院と文学や哲学をしている人には到底歯が立たず、本を読んでもちゃんと分かるのには大分時間がかかりそうだ。一方でオープンな環境批評や生業と若干関連している脱帝国主義批評は比較的に理解が進んでいる気がする。  昼は山田うどん。パンチというもつ煮込みが美味しい。露地物で蜜柑と椎茸を買う。  原稿脱稿。 2022/11/13  昨日は山田うどんで肉汁うどんを食べ、マッサージに行き、マウンテンデューを飲んだ。そして本日は友季亭で肉汁うどんを食べた。どちらもそれぞれ美味しい。ジョン・ロールズの『万民の法』を読み始める。政治的リベラルな国家や民衆が良心をもって平和でウェルビーイングなグローバル世界を形成するというもの。法というだけありいわゆる無法国家や、資源や文化が脆弱な国家にも視点が配られている。本書を読むとどうやらウクライナ情勢は万民の