投稿

7月, 2022の投稿を表示しています

窪田空穂歌集『清明の節』における〈われ〉と生命観

 『清明の節』は遺歌集で、避暑地の軽井沢を除くと、自宅や庭等近隣の歌が多く、外出さえままならない病床の歌も収められている。一方で老いに反して意識は研ぎ澄まされ、またときに遠くから世界を俯瞰する歌もみられる。     九十を一つ超えしと人われを言ふわがものならず命の齢なり    引用歌は自身の年齢を直接詠みこんでいる。九十歳の大台を超えたことを意識しているが、年齢を〈わがものならず命の齢なり〉と客観的にみている。若く健康なうちは生命は当然あるもので意識をすることは稀である。死を意識したときに生命は具体物として浮かんでくる。具体物である“生命”を詠ったときにその影として死が存在するのである。     四時間ごとに飲むべき薬飲ますとて妻は秋の夜眠りの短き   わが腰を支ふる老妻力尽き倒るるにつれてわが身も倒る   立たざれば用を弁ぜぬ身にしあれば立たぬ足腰立たさねばならぬ    他者を詠むときに、〈われ〉が即物的に扱われているところに印象が残る。一首目は夜も薬を主体に飲ませるために起きている妻を〈秋の夜〉と修飾することで歌にしている。静かな秋の夜と妻の存在が際立っているが、そこには描写されない主体がいる。一首のなかで巧妙に自分を消しているのである。二首目は二句切れで読むと上句は、〈老妻〉が下句と跨っていることがわかる。「老妻がわが腰を支える」という初、二句の主語と、「老妻が力尽き倒れる」の下句の主語を〈老妻〉は兼ねているのである。上句を読むと〈わが腰〉を目的語に据えて自らを客観的に扱っている。結句では自ら倒れてしまっているが、どこか他人事である。立つのも倒れるのも自分の医師のおよぶところではなく、妻や老いに因っている。三首目も同様に〈足腰立たさねばならぬ〉と自動詞ではなく他動詞である。立つことが困難な足腰はわがものにならないという読みができ、冒頭に引用した〈わがものならず命の齢なり〉と同じような構文だ。本歌集で空穂は自らの生命や身体をわがものならずと扱っていることが、この二首を読むとわかってくる。   臘梅の老いさびし香のほのぼのとわが枕べを清くあらしむ   庭と椿あひ思ひあふ仲なりや高椿三本せまきこの庭    庭周辺の自然詠でも先述の傾向はみられる。一首目は「大寒」という連作より引用した。蠟梅の老熟した存在感と香りをゆ