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京都に住むとは

 京大の歌人は土地への意識が高いなという印象があった。近刊の歌集だと阿波野巧也歌集『ビギナーズラック』にも鴨川という言葉が出てきた。筆者の地元を流れる柳瀬川とはまた違う、京都らしい川の雰囲気を出していた。隅田川でも多摩川でもだめで鴨川じゃなくてはだめなのだ。京都は観光で数回しか行ったことないが、確かに訪れるにはいいところだ。住むと実際どうなのだろう。バスは観光客で混むため難儀すると聞いたことがある。  永田和宏と京都女子大学の学長竹安栄子の対談(「京都は歌の原点の地」 歌人・永田和宏さん×京都女子大学学長・竹安栄子さん 河野裕子短歌賞記念対談、産経新聞、https://www.sankei.com/west/amp/201129/wst2011290003-a.html、最終閲覧日二〇二〇・十一・二十九)はネットニュースにも関わらず会員登録しなくても全文読める記事だ。ネットニュースは会員登録しなければ読めないことが多く、貧乏性のある筆者にとっては高嶺の花なのである。 永田 やはり一生のうちで4年間、京都に住めるのはすごい財産になりますね。 竹安 京都女子大学は東山の懐に抱かれ、近くには京都国立博物館や三十三間堂もあります。この風土が醸し出す雰囲気がアカデミックな世界にマッチしていると思います。  学問や文学に青春を燃やすことができる時期に京都に住むのはやはりいいらしい。森見登美彦著『夜は短し歩けよ乙女』もそういえば京都が舞台だ。『夜は短し歩けよ乙女』的青春が京都には多数観測できるのだろうか。だとすると恐るべし京都。

短歌風土記名古屋篇2020 「短歌ホリック」第7号を読む

 文フリで購入した同人誌のひとつに「短歌ホリック」がある。所属結社「かりん」の先輩である辻聡之さんが企画編集している同人誌だ。「Tri」もあるし「かりん」の歌人は同人誌に携わっている割合が高い気がする。   夾竹桃がまたしても咲く標識板のあをの世界のふたりを覆ふ 荻原裕幸  連作の次のページに同人同士の相互評がある。そこでは喪失感がキーワードになっている。この歌も標識のなかのピクトグラムが寂しげだが、〈あをの世界〉は完結しているようでもある。夾竹桃は〈ふたり〉を外界からさらに隔てて守っているのか、孤独にしているのか。〈またしても咲く〉ということでわれは〈ふたり〉の抒情を毎年共有しているのである。この歌に関してはピクトグラム同士の「二人いれば孤独じゃないよ」的なボーイミーツガールの物語があるという読みもできる。   じゃんけんで勝てば無料になるレモン酎ハイ騒ぐよギャンブラーの血が 小坂井大輔  平成、令和と年号が変わるなかで小坂井の連作は昭和レトロな感じがする。荻原が連作評で「平和園をアレンジした下町的空間。自身をデフォルメした博打好きの料理人。」と述べているがその通りだと思う。じゃんけんで勝つことも、レモン酎ハイなのも昭和感があるし、東京で考えるなら新宿や池袋では想像できない光景である。もっとも城東方面の下町ならなんとなくありそうだ。情景を思い浮かべているうちに小坂井の描いている世界はもうないのかもしれないとも思えてくる。アウトローなわれは痛快ではあるが、ホームシアターで「ALWAYS三丁目の夕日」を見ているノスタルジックな気分になってくる。アウトローなわれと、ノスタルジックな読者のテンションのギャップもこの連作の面白さである。   まだ腋毛あると思えばだいじょうぶ元気は自分で間に合わせたり 辻聡之  連作後の評では〈陰毛を剃り終えしのちすんすんと水羊羹のごどきしずけさ〉が引かれているが、腋毛も陰毛と同じ男性性、ファルスのモチーフなのだろう。廣野翔一が性は自分の拠りどころであると述べているが、辻は性のモチーフを剃り、全裸になることで体性感覚や社会的性など違和を表現しているのかもしれない。ロダンを想起しやすいが、青銅の青年像は筋肉が引き締まっており、男根も隠すことなく表現されているものが多い印象がある。辻はそこから一歩進んで、違和を感じつつも男性性やファルスの荒々しさ

玉蜀黍の白い髭のような 西村真一著『窪田空穂論』(平成二〇・一/短歌研究社)を読む

  窪田空穂の研究書は空穂系譜の歌人によるものが多い。その中で本著は研究者の視点から書かれているという特徴がある。また平成二〇年刊行のため多くの論考のなかでは比較的新しいものでもある。目次をみてみると「窪田空穂の歌の基層―その形成と定着―」で空穂の思想の根底にあるものを探り、「明星」から中盤の挽歌・老年の歌に展開していく。終盤は「窪田空穂の「顔」の歌」、「窪田空穂の草木歌」で空穂短歌の特長を見出していくという構成になっている。先行研究や作品、散文にバランスよく触れられており、そこから文学的な意義や魅力を引き出していくため、空穂にある程度親しんでいる読者はもちろん、初めて空穂に接する読者も全体像が把握できる本である。  「窪田空穂の歌の基層―その形成と定着―」では基層を信濃の風土、農民の魂、両親、信仰の項目に分けて論じている。信濃の風土はいうまでもなく自然に恵まれており、モダンな食生活というよりは、当時は玉蜀黍や芋汁のほうが親しまれている。空穂の歌からもそうした風土に根ざした食が描かれており、歌と風土がつながるのである。農民の魂については空穂の父が農業を生業としており、労働はよいものであるという価値観があった。空穂も幼少期はその価値観のもと育ったが、散文では家畜も使わず一人力で一人力で仕事する農作業についてやや突き放した印象を持っていることが語られている。空穂はある人物に焦点を当てて作品をつくることをよくするが、両親や家族はとりわけ多い。空穂は若き日に母の懇願を押し切って上京している。東京専門学校を中退して、大阪で商売をする。商売に気質が合わず失敗するのだが、その後母が体調を崩したことで看病のために故郷に戻る。後悔もあり母に対しては並々ならぬ愛情がよみがえってくるのである。歌からも苦悩や人間臭さが読みとれるが、ろ過された抒情である。生活者としては想像以上に苦しんだことが推察できる。境涯詠や老年の艶といわれる作品が生活の苦悩を経て獲得したということは容易に想像できるが、それだけではなく度重なる内省や家族への思慕が人間への関心に発展していったのであろう。  空穂は挽歌の歌人という印象がある。それは長歌「捕虜の死」で有名なだけではなく、次女なつ、妻藤野、そして次男茂二郎を亡くしているからである。本書ではそれぞれの挽歌やライフステージ、それぞれの死の特徴などから、空穂の多様な

かりん一首鑑賞2020年11月

 かぁへれかぁへれ朝の黒鳥くりかへし帰れと啼きぬ産土の地へ 北辺史郎「かりん」(二〇二〇・十一)  本能に片付けられない帰るという使命を動物は持っているように思う。帰るとは生きて帰ることであるし、諸説あるだろうが「いってらっしゃい」の掛け声は行って帰ってこいの意味である。引用歌はカラスを朝の黒鳥と表現しているが、カラスではなく精霊のような存在なのかもしれない。カラスはいまではごみ置き場を荒らしたり、クレバーで一筋縄にはいかない鳥という一般的な認識があるが、古事記、アイヌ神謡、エジプト神話でも神聖な鳥でもある。そんなカラスは毎朝かえれとわれに呼びかけるのだ。産土とはどこであろう。原風景や何かしらのルーツである土地、読者それぞれが思い起こしてもいいのだが、北辺のことを知っていると福島であろうという推測もはたらく。福島は住むところではなく帰る場所になってしまったのだ。そして、産土の地というほどわれから距離のある地になってしまった。前半のリフレインがなんとも情感がある。

巨人の足跡 十首

  巨人の足跡 西行と話した月と朔太郎愛した月とわが上の月 かつて馬なりしタクシー炎天を黒き身に浴びふるえておりぬ 馬ならば弔われるも壊れたる自動車積みあげられて首無し ホイールを外してブレーキ付けるらし解説動画は箴言めいて 牛乳を買いに行くため燃やされる小さな生きものだったガソリン 朝なさな十人坂を登りたり和製ホラーのようなその名よ 西行のつぶやきが歌になるあいだ西行松は太りゆきけん 朝顔の大きな柵をとおりすぐどれだけ歩けば漂泊なるか 茄子のよくなりし畑が売られのち小さな巨人の足跡がある むらさきの空のしたみな帰る人なぜかエンジン音もやさしい

ふふっと笑う かりん2020年7月号「若月集」より

  肌寒くなってきて冬にはまだまだとはいえ、秋ともいえない気候だ。若月集をみると夏の歌がみられ、今年の夏が随分むかしのような気がしてくる。コロナ禍は時間間隔も奪ってしまったようだ。   締まらないねじは締まらないままにして日光東照宮のような机だ 川島結佳子   夏の日のキッチンに立つあなたへと求人雑誌で風を送る役 岡方大輔  川島の連作は机が届いて組み上げ配置するまでの一連だ。組み立て式の製品を購入すると、ねじが締まらなかったり、やたら部品が余ったりする。それはそれでしょうがないので不完全なまま生活に組み込まれるが、用は足りているのだ。次第にその瑕にも慣れてくるのが、日光東照宮のような感覚なのだろう。柱が一本逆さまになっているので完璧なものではないため魔が差さない、というゲン担ぎのようなものだが、この“細かすぎて伝わらないモノマネ”が面白い。岡方の歌はドラマや映画の一場面のように視覚的である。求職する気もあまり起きない暑い夏に求人雑誌で扇ぐのである。求人雑誌はうちわという役割を得て、オチが効いている。他にも面白い歌が数多くあったが、引用した二首はふふと笑える面白さがある。

ブラックホールは歌う 井上円了著『通俗講義 霊魂不滅論』を読む

  井上円了の『通俗講義 霊魂不滅論』を読んだ。霊については以前神智学の入門書のさわりを読んだ程度だが、通俗講義とあるように初学者でもわかりやすい内容であった。また、講談のような軽やかな文体から、円了の教養を一般に広めようとする意志が伝わり、それこそ円了の霊の声を聞いているようであった。  神智学の霊の概念に近いながらも、本書は霊なんているわけないじゃんといういわゆる常識に対して、回答する形式である。霊なんているわけないというのは唯物論であり、円了は唯心論の立場をとると述べている。霊は観測できないからいないのではなく、いないことも証明できないということや、精神がろうそくの火のようなものであるならば、一度死によって消えてもまた火がつくはずだなど面白い論法で展開されていく。一瞬なるほどと思いつつ、いや待て言い過ぎではないかと思うのも、近代人と同じであろう。円了のいうようにいくら科学が発達しても霊は観測できないので、霊に対するスタンスは近代人と同じものにならざるを得ないのである。  本書から一つ核心のようなものを得た。死ののちに脳Aの機能が停止しても、無限の組み合わせのあるカオスな宇宙空間全域のなかで、脳Aの機能と同じ構成または機能が出現する可能性は大いにある。それが千年後なのか観測できないほど未来なのかわからない。しかし、脳Aの機能がある偶然出現したときに例えば「お好み焼き食べたいな」という抒情が生じるのである。その抒情をするのが未知の生物かもしれないし、生物ではなく惑星かもしれない。しかし、その瞬間脳Aはよみがえるのである。もしかするとブラックホールは歌っているかもしれない、そんなことも考えた。

生活場モデルについて(ソーシャルワークの検討)

  社会的困窮や超高齢化社会など社会問題が多様化の時代から、深刻化にシフトしているように思える。文学とりわけ筆者が取り組んでいる現代短歌においては「生きづらさ」がキーワードになるほど生きにくいとされる世の中なのに、ソーシャルワークという言葉はメディアでは目にすることがない。本文では短歌と医療ソーシャルワークに携わる筆者が自己紹介もかねて、ソーシャルワークの新しい視座である生活場モデルの紹介とその展望について論考し、ソーシャルワークと短歌の接点を探る機会にもしていきたい。  ソーシャルワークという言葉をはじめて耳にする人も多くいるだろう。ソーシャルワークとは『デジタル大辞泉』では社会事業を参照とされており、そこをみると「社会からの援助を必要とする人に対し、公私の団体が行う生活改善や保護・教化の組織的な事業(略)」と記されている。福祉機関には必ずといっていいほど多く配属されており、行政機関や高齢者施設、児童相談所や医療機関などが身近であったり、報道で目にする配属先である。福祉というとかつては公共機関は施策として要援助者に提供したものであったが、今日では準市場化され、自己決定権の尊重などもあり、『デジタル大辞泉』の解説よりもリベラルで柔軟で多様性のある活動である。ソーシャルワークはクライアントと直接面談するケースワーク、地域を組織化し福祉力を高めるコミュニティワーク、政策面に働きかけるソーシャルアクションなどと、ミクロ・メゾ・マクロな取り組みがある。その中で日本のソーシャルワーカーの多くがケースワーク~コミュニティワークに日々従事している。  さて、相談援助技術におけるアプローチ論は医学や精神分析学の影響を受けた診断主義と、環境との相互作用に着目する機能主義からはじまる。テキストに掲載されているアプローチで新しいものだと脱構築主義や民俗誌の影響を受けたナラティブアプローチや、生態学の影響を受けたエコロジカルアプローチなどがある。また、カオス理論やトランスパーソナル心理学を取り込む考えも出てきており、時代とともに様々なアプローチが誕生している。クライアントと面談したり、クライアントを取り巻く地域の組織化をするという、突き詰めると困ったことを解決する手伝いをするというシンプルな活動なのに実に多くの学問のエキスが流入していることかと思うこともある。  日々の実践のなかでアプロー