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6月, 2021の投稿を表示しています

チョコレートのジレンマ

 チョコレートのジレンマをご存知だろうか。知らないのも当然。筆者が最近発見した心理現象だからである。チョコレートと名がついているがあらゆるものに応用可能で、名前ほど甘くないのが世知辛いところだ。  例えばフォンダンショコラやチョコレートアイスなどを食べたとしよう。きっと濃厚なチョコだとか、とろとろしている、あるいはパリパリしているなどチョコ感を楽しむであろう。チョコが濃く、チョコ感が強いほうがより良いように思われる。同じように例えば苺のタルトや苺のアイスも、甘すぎず苺のつぶつぶを感じられるものが良しとされる。  そこで食べ手はふと思うのだ。普通にチョコレートを食べればいいのではないか、普通に苺を食べたほうがいいのではないだろうか。たしかに、チョコレート、それもハイカカオチョコレートなどを食べたほうが美味しさだけではなく、健康にいい。同じように、苺だけなら脂質も糖質も抑えられ、健康にいい。  では、いま美味し美味しと食べているものは何なのか。この答えが出せないのがチョコレートのジレンマである。なお類似している概念にメロンパンや、スイ○バーがある。一見似ているが、メロンパンを食べるときはメロン感を期待しているひとはいない。スイ○バーもスイカとは別の美味しいアイスになっている。

かなしい花いちもんめ 一首鑑賞

  南部の土掘って新基地埋め立てへ父の遺骨の花いちもんめ 田村広志「うた新聞」(二〇二一・六)  沖縄の基地移設問題で具志堅隆松がハンガーストライキをし、田村も三日間それに伴うという体験が下地にある。しかし、この歌のかなしさは何だろうと考えたときに、〈南部の土〉というのに遺骨が含まれていることがある。南部という本州ではなく沖縄のトポロジーと、土という生命感のあるものが、新基地という無機質なものへ運ばれるというところにかなしみがある。埋め立てられる場所で珊瑚礁や生態系が破壊されるということは耳にし、ニュースでの映像も痛々しいものだかが、埋立のための土を詠った歌を読むのは引用歌がはじめてである。そして、結句の〈花いちもんめ〉もかなしい。言葉は詩的だが、政府は結局遺骨を安く見積もっているということだ。この連作に通底するかなしみは怒りを通り越したものだろう。歌を読むことを通じて、行動しない自分も含めて、改めて考えさせられる。

河合靖峯著、福田清人編『森鷗外 人と作品』(一九六六・一〇/清水書院)

  序文に文豪とは天才的な作家を指すのではなく、経歴の長さや、時代を代表する作品を多く持ち、偉大な人間性と高い見識を持っている人物のことであると書かれている。シェイクスピア、ゲーテ、トルストイなどが挙げられているが森鷗外もその一人である。木下杢太郎は鷗外をテエベス百門の大都であると表したが、まだ筆者は浅学にして一つの門も遠景に捉えることができない。本書は人文学系の入門書として有名なシリーズで鷗外事始めとしては適切だと思い手を取った。鷗外の一生を周辺の人物や時代背景とともに描き、また大逆事件のような大きな出来事においては紙幅の関係で、示唆にとどまっているが読者がたとえば『かのやうに』などの示唆的な作品に食指が動くように書かれており、巧妙さを感じる一冊であった。  幼少期に漢学の素養が培われたことは有名だが、「平素実力を養つて置いて、折もあつたら立身出世しよう」という森家のエゴイズムなるものがあり、鷗外の精神形成に影響があったのは面白かった。典医の家系のため気位が高いだろうとは思っていたが、時代的にも家、血というものが強かったのだろう。学生時代の読書三昧寄席三昧、そして生涯の友となる賀古鶴所と緒方収二郎との出会いである三角同盟は『ヰタ・セクスアリス』に描かれており、本書も多く引用している。鷗外の実体験に即した小説として再読せねばと思わされた。その後『雁』のモチーフになる初恋があり、陸軍病院勤務になりと人生が進んでいく。『医政全書稿本』を編み実力を認められていくさまは軍医においてもディレッタントであることが垣間見える。その後ドイツに渡り衛生学を修めるとともにドイツ三部作の下地になる体験をする。ミュンヘンでナウマンが日本の文化をとぼしめる論文『日本列島の地と民と』に反論するのもハイライトである。その後ベルリンでコッホの衛生試験所で研究に従事する。衛生学だけではなく『日本食論拾遺』や、クラウセヴィッツ『戦争論』を歩兵大尉に講義したりと幅広い教養を深め、獲得していった。帰国後に『衛生療病志』を創刊し、日本の医学を文献研究から実証的な自然科学へとパラダイムシフトさせたのも大きな功績だろう。医学の文明開化も担っていたのである。帰国後は訳詩集『於母影』、坪内逍遙とのシェイクスピアの解釈をめぐる没理想論争、『即興詩人』など作品を書き上げるが、政治的に敗北し小倉へ左遷される。本書にはなか

短歌の行動主義的側面

 有斐閣『心理学小辞典』によると行動主義は1913年にワトソンが提唱した心理学の考え方で、科学であるから観測可能でなくてはならないということが趣旨のもので、刺激・行動・反応を観測することで研究がなされる分野である。行動療法にも応用され、どのような条件下で特定の行動が起こるか、行動により正か負かどのように反応するかを評価しながら、特定の行動の増減を期待して介入するのである。具体例を挙げると、仕事で疲れた環境下で、〈もみほぐし三千円!〉の看板である視覚的刺激を知覚する。そこでマッサージ店に入るという行動をし、施術を受ける。そうすることで肩こりや疲れが解消されるという正の動機づけが生まれる。その動機づけがさらなるマッサージ店に駆り立てるのである。スキナーという研究者が、鳩を箱にいれてボタンを押すと餌がでる装置を施すと、ボタンを押すという行動が強化されるという研究をしたが、よくパチンコに例えられる。  さて、心理学文脈の文学批評は精神分析の独壇場であった。ゲシュタルト心理学や行動主義、認知心理学も文学に寄与する知見があるような気もするが、文学批評と心理学理論が交わる機会がなかったのだろう。今回は学生時代に学んだことを思い出しながら行動主義的批評の可能性について考えたい。  行動主義は先に触れたが、短歌の批評は時代・歌人・歌集・連作・一首単位というメゾからマクロの批評範囲がある。しかし、どの範囲も短歌という性質上数首引用しながら歌の性格や位置づけをもとに論を展開させる。歌集評であるなら引用歌が歌集の主題をいかに担っているか、抒情をどのように描いているかということを論じるのである。つまり、帰納的であれ演繹的であれ一首(のなかの句もしくは単語)という単位が有機的に結びつき、歌集や歌人論というマクロを形づくるのである。この構造が行動主義における行動に似ているのである。行動も細分化することが可能である。先述のマッサージ店を例に出すと、マッサージを受け疲労回復を図るまでに、店へ歩くことや、財布からお金をとり出して代金を払うことも含まれる。それらすべてに刺激、行動、反応がセットになっており、複雑な行動を成しており、こうした点が短歌の鑑賞や評論に類似しているのである。  行動主義的批評というのは存在し得るものだと思われる。しかし、先に述べたように行動主義的な要素が短歌批評に予め備わっていた

若月集(「かりん」二〇二一・六)を読む

  若月会が第三日曜の早起きの動機になっていたが、もうずいぶん昔のように思える。若月集を読んで再開を期したい。   ちよちよと湯の中に味噌溶きをれば鳥の音魚の目に春は逝く 鈴木加成太  味噌汁や豚汁など味噌をとくときは鍋の煮える音くらいで静かな空間になる。そんな閉ざされた空間に鳥の音や、魚の視界という異空間を空想する。ちよちよという味噌が溶ける音が空想の呼び水になるが、鍋のなかも宇宙めいており、空想を支えている。   粉チーズあほほどかけるナポリタン好意はどこから暴力となる のつちえこ  ナポリタンはソーセージやピーマン、トマトソースとうま味の宝庫だ。そこにさらに粉チーズをかけるとうま味も増す。が、あほほどかけると素材の味を消してしまうのである。ナポリタンはトマトケチャップも主張が強いので、粉チーズのかける量には注意が必要である。そんな、過ぎたるは猶及ばざるが如しを好意に置き換えて詠うところに眼目がある。強い好意は失敗したナポリタンのように強烈な味なのだろう。  そういう目で見ちゃいけないのにコンビニのたいていのもので死ねるとおもう 岡方大輔  そういう目で見ちゃいけないのにという、冷静さとでも見てしまうという諦めのような気持ちがどこか共感し、どこかハッとさせられる。コンビニの雑貨店めいた品揃えも大抵何か他の利用ができる。コンビニの既成概念からある意味解放されているのだが、それは希死念慮からくるものでもある。歌にするところでそうした負の気持ちにも興をもって向き合っているのだが、危うい。そうした危うさがそういう目なのである。   三鷹駅の北はマンボウ南口の飲み屋はマンボウではないという 黄郁婷  マンボウは新型コロナウィルス感染対策の政策のことだが、マンボウと書かれると魚類のマンボウを同時に想起する。そうした面白さを狙った歌で、この歌を読むと、マンボウが三鷹駅の北口の空中を泳ぐような奇想が思い描かれる。しかし南口に行くとマンボウは突如消えて南口の飲み屋というリアルな風景になるのだ。

カツカレーを食べたこと キッチンクルミ

 キッチンクルミは地元の洋食屋だ。店舗は所沢のみにあるはずだが、遡ると昭和初期に神田で創業したらしい。クルミではオムライスやポークジンジャーを頼むことはあったが、カレーはどうしても優先順位が低かった。なぜなら洋食屋のカレーは東京會舘が一番だと思っていたからだ。しかし、洋食カレー歴は浅く、東京會舘が一番なのかは怪しい。本日はキッチンクルミでカツカレーを注文してみた。   熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 額田王  ルーはグレイビーボートに乗ってくる。この日本式のスタイルがいい。カツカレー実食という船出である。 今は漕ぎ出なとルーをカレーとカツレツに注ぎ込む。大胆に、しかし、カツの端はルーに濡れないよう繊細にかけるのである。ルーは玉ねぎがふんだんに使われている。野菜の甘みと旨味が凝縮されている感がある。カツは厚く、パン粉は細かい。とんかつ屋のパン粉は粗いほうがいいが、洋食屋は細かいほうが雰囲気にあっている気がする。カツカレーはボリューミーでカレー、カツ、カツ、カレーくらいのテンポで食べるとバランスがいい。途中で福神漬けやらっきょう漬け、水で小休止しながら食べる。カツカレーという大航海には小島での補給が重要である。さて、航海もじきに終わりを迎えようとしている。最後に宝箱のようなカツレツの端を食べる。ポークの脂身の甘みと、下味の塩コショウが旅の余韻を醸す。そして、 大航海の白昼夢を覚ますのは、らっきょう漬けである。  海なし県にカツカレーという海がある。

奥村知世歌集『工場』を読む

  奥村知世歌集『工場』は楽しみにしていた歌集である。新人賞の候補作で奥村作品に触れていたが、職場詠が印象的で他の候補作より地に足がついているところにも好感を持っていた。今回は歌集という形でまとまった歌数に触れることになり、また藤島秀憲の的確な解説も相まってより面白く作品を読むことができた。   女でも背中に腰に汗をかくごまかしきかぬ作業着の色   「長い毛は縛る」が新たに追加され実験規定の版改まる  歌集の題名のごとく工場での職場詠が多い。工場は職業選択の潮流と、体力が必要ということで男性が多いことはわかる。そんななかで奥村はおそらく現場で研究開発を担う職を得た。工場内の室温は高温になるようで、漬物を多めに食べるという歌もある。その工場で女性が働くことのギャップを掬い上げた歌がまず目にとまる。工場では流行のファッションやヘアスタイルよりも機能性、安全性がもとめられる。一首目のごまかしきかぬは汗だけではなく、ひとりの職業人として、人間としても誤魔化しがきかないということだろう。二首目も奥村にとっては言わずもがなの規定だろうが、職場の組織としての女性進出への対応が描かれている。職場詠からは自身の職への自負が読みとれる。また、客観的な描写や、機能性が求められる職場からは、特有の社会的な性別のあり方も提示しているようだ。   たくさんの部品を産んだ金型を終業前に念入りに拭く  詠われるモチーフは工業製品やその場面が多く、花鳥風月を愛でまくるタイプの歌集ではない。奥村は文明社会のなかにふと顔をだす自然を慈しみ詠うのである。花鳥風月だけが歌ではないと改めて思わされるのは、こうした歌である。金型を母に見立てて労うのは単なる擬人法ではなく、相棒としての金型への親しみや、共感がある。金型を拭くのと同時に自らを労うのである。そんなときに金型は冷たい無機質なものではなく、鼓動しすり減りもする生物めいてくるのである。   3Lのズボンの裾をまるめ上げマタニティー用作業着とする   かみさまのレゴのごとくにコンテナは湾岸地区に積み上げられる  子育ての歌も本歌集の主要なライトモチーフである。奥村はあとがきで仕事も子育ても肉体を使い目の前の具体的なものに行うことと述べている。ゆえに過度な感情移入に陥らず、知的に詠っているのかもしれない。二つの主要なライトモチーフの間にある歌を拾い上げていくと

『かたわらに 沢田英男彫刻作品集』(二〇二一・三/亜紀書房)を読む

  無垢の木片の上部がトルソーのように彫られている。顔はないがなんとなく悩んでいる・ぼうとしている・眠たげだ・落ち込んでいる・もしくはどれにも当てはまらない。本書は彫刻家沢田英男の彫刻作品集だ。木片で多くの人物を彫っている。木の素材をそのまま生かして胴を表現し、必要に応じて彫ったり着色したり焙ったりしているようだ。木片というささやかな素材から、一人の人間が生まれる。英雄のような大人物ではなく冒頭のようなひとりの裸の人間である。その人間を自室に迎えるならコーヒーと気の利いた世間話でもしたくなるような存在感がある。筆者は街ゆくひとを眺めたり、友人を探すような気持ちで鑑賞した。沢田の作品の方が静かなのだが、五百羅漢像を眺めるのに近いものもある。  木の彫刻はハレよりケのものだ。本書前書きには「私は街の彫刻屋になりたいと考えはじめていたのかもしれない」とある。生活の片隅に存在し、人生の至るところでともに考えてくれる彫刻、そんなものがあるなら沢田の作品かもしれないと思わされた。

大下一真歌集『存在』を読む

  『存在』の題字は窪田章一郎の筆によるものらしい。文庫ながらシンプルかつすっと立つ存在感は若き日の大下一真その人を彷彿とさせる。   わが死後をかかる冷雨の夜あるか濡れて鎮もる大地もあるか   若き死も枯木朽ちゆくごとき死も見て来ぬ闇に尿を放つ  仏教と日常生活との接点のひとつとして葬儀を執り行うことがある。数多くの死に向かい合うため、本歌集には死を直接的であれ間接的であれ詠んだ歌が多い。その壮絶さや無念さを山や木々、天候などに託すなど、死と一定の距離を置いている。また、死までの人生も見据えて霊的な視野で捉えている。一首目は自身の来るべき死を厳粛な冷たい雨に託している。温い雨だと情感がでるが、引用歌ではあくまで冷たい雨であり、この厳しさが僧としての大下の自意識でもある。二首目は結句が肉体的である。死を多く見てきたが、自らは生きており、闇に温かく臭いを発す尿を放つのである。生の証明である尿は不思議と品が悪くならない。   火焰ビン燃えあがる中あきらかに人の形して阿修羅が踊る  大下の世代は安保闘争の熱情がある。「〈青春〉像」の章では思想詠も収められているが、他の歌人と比べて問題意識は別のベクトルに向けられていた。そんな態度がかいまみえる一首である。火焰ビンは安保のデモのシンボルで、そのなかに阿修羅を見いだす。安保もデモも修羅なのであるが、この歌からは「とはいえしかし……」と苦悩するわれの葛藤も読みとりたい。   定まらぬ首あやうきを抱きつつ無明どっぷりとわれは父たり   革命のゲバラに遠き飽食のデバラと自嘲《わら》う夜の鏡に  ストイックな歌が多いなか子の歌と、ユーモアの歌は読むとほっとする。無明は仏教用語で無知、真理に遠いということらしい。首の座らぬ子を抱くときの不安感は生理的安全の希求に基づくもので、自身ではなく子の身のこととなると尚更である。普段修行しているわれも思いもよらぬ角度からの不安感であったことが想像できる。〈無明どっぷりとわれは父たり〉と短歌的にきまっているが、自らを相対的にみた歌で、自らをはだかにしたような歌である。次の歌は駄洒落の歌だが、時代感もあり自己戯画化もありウィットに富んでいる。  巻末の島田修三の解説も当時の「まひる野」の活気が伝わってきて面白かった。