若月集(「かりん」二〇二一・六)を読む

  若月会が第三日曜の早起きの動機になっていたが、もうずいぶん昔のように思える。若月集を読んで再開を期したい。


  ちよちよと湯の中に味噌溶きをれば鳥の音魚の目に春は逝く 鈴木加成太


 味噌汁や豚汁など味噌をとくときは鍋の煮える音くらいで静かな空間になる。そんな閉ざされた空間に鳥の音や、魚の視界という異空間を空想する。ちよちよという味噌が溶ける音が空想の呼び水になるが、鍋のなかも宇宙めいており、空想を支えている。


  粉チーズあほほどかけるナポリタン好意はどこから暴力となる のつちえこ


 ナポリタンはソーセージやピーマン、トマトソースとうま味の宝庫だ。そこにさらに粉チーズをかけるとうま味も増す。が、あほほどかけると素材の味を消してしまうのである。ナポリタンはトマトケチャップも主張が強いので、粉チーズのかける量には注意が必要である。そんな、過ぎたるは猶及ばざるが如しを好意に置き換えて詠うところに眼目がある。強い好意は失敗したナポリタンのように強烈な味なのだろう。


 そういう目で見ちゃいけないのにコンビニのたいていのもので死ねるとおもう 岡方大輔


 そういう目で見ちゃいけないのにという、冷静さとでも見てしまうという諦めのような気持ちがどこか共感し、どこかハッとさせられる。コンビニの雑貨店めいた品揃えも大抵何か他の利用ができる。コンビニの既成概念からある意味解放されているのだが、それは希死念慮からくるものでもある。歌にするところでそうした負の気持ちにも興をもって向き合っているのだが、危うい。そうした危うさがそういう目なのである。


  三鷹駅の北はマンボウ南口の飲み屋はマンボウではないという 黄郁婷


 マンボウは新型コロナウィルス感染対策の政策のことだが、マンボウと書かれると魚類のマンボウを同時に想起する。そうした面白さを狙った歌で、この歌を読むと、マンボウが三鷹駅の北口の空中を泳ぐような奇想が思い描かれる。しかし南口に行くとマンボウは突如消えて南口の飲み屋というリアルな風景になるのだ。