短歌の行動主義的側面

 有斐閣『心理学小辞典』によると行動主義は1913年にワトソンが提唱した心理学の考え方で、科学であるから観測可能でなくてはならないということが趣旨のもので、刺激・行動・反応を観測することで研究がなされる分野である。行動療法にも応用され、どのような条件下で特定の行動が起こるか、行動により正か負かどのように反応するかを評価しながら、特定の行動の増減を期待して介入するのである。具体例を挙げると、仕事で疲れた環境下で、〈もみほぐし三千円!〉の看板である視覚的刺激を知覚する。そこでマッサージ店に入るという行動をし、施術を受ける。そうすることで肩こりや疲れが解消されるという正の動機づけが生まれる。その動機づけがさらなるマッサージ店に駆り立てるのである。スキナーという研究者が、鳩を箱にいれてボタンを押すと餌がでる装置を施すと、ボタンを押すという行動が強化されるという研究をしたが、よくパチンコに例えられる。

 さて、心理学文脈の文学批評は精神分析の独壇場であった。ゲシュタルト心理学や行動主義、認知心理学も文学に寄与する知見があるような気もするが、文学批評と心理学理論が交わる機会がなかったのだろう。今回は学生時代に学んだことを思い出しながら行動主義的批評の可能性について考えたい。

 行動主義は先に触れたが、短歌の批評は時代・歌人・歌集・連作・一首単位というメゾからマクロの批評範囲がある。しかし、どの範囲も短歌という性質上数首引用しながら歌の性格や位置づけをもとに論を展開させる。歌集評であるなら引用歌が歌集の主題をいかに担っているか、抒情をどのように描いているかということを論じるのである。つまり、帰納的であれ演繹的であれ一首(のなかの句もしくは単語)という単位が有機的に結びつき、歌集や歌人論というマクロを形づくるのである。この構造が行動主義における行動に似ているのである。行動も細分化することが可能である。先述のマッサージ店を例に出すと、マッサージを受け疲労回復を図るまでに、店へ歩くことや、財布からお金をとり出して代金を払うことも含まれる。それらすべてに刺激、行動、反応がセットになっており、複雑な行動を成しており、こうした点が短歌の鑑賞や評論に類似しているのである。

 行動主義的批評というのは存在し得るものだと思われる。しかし、先に述べたように行動主義的な要素が短歌批評に予め備わっていたようにも思われ、取り立てて理論として行動主義を全面に押し出す重要性もないだろう。印象批評的な短歌批評は歌(表出された行動)に基づいてなされているものだということはいえて、主観的なようで案外科学的なのである。