大下一真歌集『存在』を読む

  『存在』の題字は窪田章一郎の筆によるものらしい。文庫ながらシンプルかつすっと立つ存在感は若き日の大下一真その人を彷彿とさせる。


  わが死後をかかる冷雨の夜あるか濡れて鎮もる大地もあるか

  若き死も枯木朽ちゆくごとき死も見て来ぬ闇に尿を放つ


 仏教と日常生活との接点のひとつとして葬儀を執り行うことがある。数多くの死に向かい合うため、本歌集には死を直接的であれ間接的であれ詠んだ歌が多い。その壮絶さや無念さを山や木々、天候などに託すなど、死と一定の距離を置いている。また、死までの人生も見据えて霊的な視野で捉えている。一首目は自身の来るべき死を厳粛な冷たい雨に託している。温い雨だと情感がでるが、引用歌ではあくまで冷たい雨であり、この厳しさが僧としての大下の自意識でもある。二首目は結句が肉体的である。死を多く見てきたが、自らは生きており、闇に温かく臭いを発す尿を放つのである。生の証明である尿は不思議と品が悪くならない。


  火焰ビン燃えあがる中あきらかに人の形して阿修羅が踊る


 大下の世代は安保闘争の熱情がある。「〈青春〉像」の章では思想詠も収められているが、他の歌人と比べて問題意識は別のベクトルに向けられていた。そんな態度がかいまみえる一首である。火焰ビンは安保のデモのシンボルで、そのなかに阿修羅を見いだす。安保もデモも修羅なのであるが、この歌からは「とはいえしかし……」と苦悩するわれの葛藤も読みとりたい。


  定まらぬ首あやうきを抱きつつ無明どっぷりとわれは父たり

  革命のゲバラに遠き飽食のデバラと自嘲《わら》う夜の鏡に


 ストイックな歌が多いなか子の歌と、ユーモアの歌は読むとほっとする。無明は仏教用語で無知、真理に遠いということらしい。首の座らぬ子を抱くときの不安感は生理的安全の希求に基づくもので、自身ではなく子の身のこととなると尚更である。普段修行しているわれも思いもよらぬ角度からの不安感であったことが想像できる。〈無明どっぷりとわれは父たり〉と短歌的にきまっているが、自らを相対的にみた歌で、自らをはだかにしたような歌である。次の歌は駄洒落の歌だが、時代感もあり自己戯画化もありウィットに富んでいる。

 巻末の島田修三の解説も当時の「まひる野」の活気が伝わってきて面白かった。