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COCOON08を読む

 休みの日は大方近所を散歩する。よくおじいさんみたいといわれるが、たしかに一般的な三十歳男性は休日は、たとえば子どもと遊んだり、独身であればスポーツや友人と飲んだりするのかもしれない。短歌をする人が一般的な生活をしていないというのは周知の事実だが、近くの神社やお寺をまわり、熟考・厳選ののち昼食を摂り、アフタヌーンコーヒーで適当な喫茶店で歌集を読むなどは独身貴族の特権だ。そんなある日の午後に「COCOON」issue08を読んだ。同人誌は多くあるが結社内同人誌は、真面目に楽しんでいるようなあり方が好きだ。   迷いなく生をえらべる実直な春の芽吹きをわれは畏れる 月下 桜   シーリングライトのひかり白々とわれを照らせり極大の月 同   鍵穴の古墳のそばを子と歩く「小人さんいた」「黒いの着てた」 田中 泉   モン族の赤いスカートひろげれば継がれて継がれたる赤い糸 白川ユウコ  巻頭作品から引用した。月下は前半は自然と〈われ〉の存在が題材の歌が集まっている。一首目のように生命力、生存のような倫理に違和を感じつつも、自然に心よせする歌もみられる。人間のありようを一歩引いてみつつも、自然の生命力にも違和を感じるというたゆたいがある。二首目は下句の言い切りがいいなと思った。ごとくなど使わず、シーリングライトと結びつけるすがすがしさを感じた。田中作品は「三歳児神話」という連作で、〈満ちたりて白雪姫の臓を食ぶる母親ありし昔ばなし集〉という歌もあり、童話へのオマージュがある。子どもを材にとった歌は難しいのだが、童話へのオマージュが子どもの幻想をさらに詩にするように感じた。〈満ちたりて〉など怖い歌もあるので、目に入れてもというよりはどこか冷めた目もあるのだろう。白川作品の〈われ〉は刺繍教室に通いながら刺繍を題材にしている。ある映画の刺繍が出てくる場面や、刺繍の技などを詠み込みつつ、〈針と糸あるところには刺繍あり文字を持たない民族も持つ〉などモン族にも触れる。継がれて継がれる赤い糸というのは、血脈でもあるのだろう。文字はないが、刺繍が民族の文化や思想を伝えていて、そうした技を自らも行っているという意識があるのだろう。  本誌には「うた画廊」という短歌作品が絵とともに紹介されるコーナーがある。絵もきれいで、楽しみにしているコーナー。永田和宏と大塚寅彦の歌が今回は取り上げら

クールスモーキング kaen02を読む

 「kaen tabacco」02というintroduction(詩のような)と短歌、エッセイで構成された作品集を読んだ。ネプリは随分と流行っているが、実はコンビニにいき複合機で出力するのが面倒だったりするが、本作品集はグーグルドライブの共有機能で公開しているので、スマートフォンやPCで閲覧可能で、読者としては読みやすくて有難い。PDFファイルで15頁、表紙や奥付のようなものもあり、ネプリと、本作品集のような公開方法と、同人誌と媒体の差が割と多様化しつつフラットになってきたのかなと、鈍い筆者も思った。さて、中身の鑑賞に入りたいのだが、表紙は木星の断面のような、マーブル模様である。煙草が本作品集はテーマだが、煙草を抽象的に描いたといったらそうかもしれないなと思うほど絵になっている。タイトルもシンプルでおしゃれである。  introduction「火煙」(中村雪生)は短い詩である。〈生活に呼吸がある〉、〈ちいさな効果〉とリフレインしながら、〈ぼくらの寝床〉や〈あなた〉と〈わたし〉の関係性を描く。中村にとっては火・煙はあなたとわたしだけが見える、ふたりの時間や空間なのかもしれない。   コンビニの きらいなおまえのアメスピとおまえのきらいなメビウスの箱 /御殿山みなみ「けむりのあまり」   燃えてなお平和と呼ぶはその名前そして二本の指の形に /のつちえこ「Smoke without fire」  一首目はアメスピとメビウスがわからないと読めない。アメスピはあくまで個人の感想だが、燃焼時間が長い。煙草は一般的に火を低温に保ち呑むほうが香りがたつと言われている。また味わうにも一気に吸うよりも煙で転がしながら吸うほうがいい。アメスタを好む<おまえ>はそうしたご託が好きな人物かもしれないのだ。アメスピのパッケージはネイティブアメリカンで、いかにも煙草史を語れそうである。一方メビウスは、元々はマイルドセブンとして売られていた。名前の変更はマーケティング的な要素であるとのこと。味は一般的にスムースな味と香りとされているが、味のライトさとマーケティングで、慣れ親しんだマイセンの名前を簡単に変えてしまうメビウスが好きではないのだ。非喫煙者にとってはわかりにくい対比だが、しかし、<おまえ>の煙草の好みを熟知する<われ>は、案外&

山花の咲く、「かりん」2018.6を読む

 「かりん」2018年6月号は、40周年記念号や記念大会などの大イベントののち祭りの余韻のある雰囲気だった。本号から新たに「山花集」という特別欄が開設された。 「かりん」では入会してまずは、III欄に所属する。そして、入会年や歌の出来等などで昇欄していく。II,IA・IB,馬場欄・坂井欄といった具合に。  その中で、2015年に開設された若手が比較的多い「若月集」、若手からベテランまで揃っている「かりん集」がいままであった。そして今回、ベテラン対象の「山花集」が開設されて、若手・中堅・ベテランの特別欄ができたということになる。本文では何首か鑑賞していきながら、それぞれの欄を味わいたい。   夜に手を引かるるごとく花水木つづく夜道を帰りきたりぬ /辻 聡之「かりん」2018.6,かりん集   タグボートに曳かれ静かに離岸するアビジャン港は象のにおいす /檜垣実生 同   さいぼうのとかくしずかなコンビニの恵方巻のだんめんささやく /中山洋祐 同   はみ出した「ん」の存在を考へるセミナーにゆく真面目な顔して /吉岡健児 同   のりたまと綽名に呼んだ遠き日の友も五十を疾く超えにけむ /細井誠治 同  辻の作品は春の情景を材にとった連作から。夜が擬人化されていて、幻想的で映像的な歌。花水木もエロスを感じさせる。檜垣作品は象のにおいが面白い。アビジャンはコートジボワールの都市で、都会なのだが、それでも象のにおいがするらしい。「アビジャン港に」ではなく「は」なのが、アビジャンこそ象のにおいがすると強調されてて、説得力があった。中山作品は破調と、かなでぬめぬめとした文体で、しかもコンビニの蔵しているさいぼうが静かなので、もう死んでしまったハムや、規格化されてしまった人間を想起すればいいのだろうか。歌の意味も不穏である。超現実的な雰囲気が今月は際立っているように感じた。吉岡、細井作品は生真面目な滑稽さと、ヒューマニズム的な歌だ。読後感がいいのはこのような作品かもしれない。   年下の子らのびやかに発言し選定されない庭のような午後 /中武 萌「かりん」2018,6,若月集   台湾が遠くなりたり祖母はまだ雨ばかり降るイーランに住む /黄 郁婷 同   鉢植ゑにみづしたたりてぼくたちの遷都の夜を木は眠りゆく /鈴木加成太 同   バレンシアにトマトを投げる祭