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日高堯子歌集『水衣集』を読む

 老いた母、母との別れが一つのテーマだが、様々な視点から大きな時代と自らの存在理由をみつめるような歌が目にとまる。   歳月や 母の身体にほのぼのと老いたるちぶさ老いたるおなか   「ここにゐて、ここに」と一人を淋しがる母よここからゐなくなるのはあなた   昨夜つくりし小鍋のお粥ひつそりと母死にし後のわたしが食べる  一首目は乳房や腹部はほのぼのとといわないと少し肉体的な描写になる。ほのぼのと慈しんでいるのである。老いはネガティブに捉えがちだが、初句の詠嘆は歳月への慈しみの情があり、歌に普遍性を持たせている。二首目も切ない歌である。対句のような構造に母の淋しさと、作者の淋しさに通うものがある。三首目は抑制された歌で、母の死後の悼むこと以外のやることとしてお粥を食べることがある。客観的に描写されているが、お粥を通して母への介護の思い出や、母の味覚と繋がるのである。母の歌は歌集のなかでも印象的である。   山水図に女の香なしと茂吉いふ老いたる女のわれはわらへり   百鳥《ひやくてう》のこゑこだまする谷川に洗濯をする山姥は棲めり  一首目と二首目は対の歌である。斎藤茂吉の男性主義的な点を山姥という民俗学や能のような文化的な題材をもってしなやかに反論している。これには茂吉もにやりとするだろう(いや怒る……か)。〈わらへり〉は品があるし、二首目で補助線を引いており筆者は見事だと思う。   崩壊は三十年のうちに来るといふ眛爽の首都靄にしづめる   崩れきてそこに止まりし大岩を蝶がいとしむ わたしは蝶だ   しろ牡丹天つ日のやうにひらきをり 放心しやすく生まれき蝶は  気候変動や異常気象から世紀末感もある一首目。靄に沈んでいる様が近未来のSF映画のようだ。二首目は豪雨により落ちてきた岩だが、その後蝶が止まっていとおしんでいる。大岩は長い時間のなかで動きまた、その位置にしばらく存在するという時間の暗喩でもある。〈わたしが蝶だ〉といいつつも、蝶そのものは人間生活とは違う次元に生き、また短い時間を過ごしている。短い時間と述べたが胡蝶の夢というように、人間と自然、時間の長短を曖昧にするのも蝶の性質である。様々に読める歌である。先の歌で〈わたしが蝶〉だといっていたが、三首目もわれと蝶が一体化しているような歌である。今度は大岩ではなく大きな白い牡丹とともに蝶がいる。その牡丹の存在は強く大きく