シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』を読む日記
生業と趣味やライフワークが一致している人は希だ。知人にいなくもないが、喜ばしいことか、給料はよく先々まで経済的な安定を期待できるか、人生という長いスパンでみたら、兼業作家的な在り方と専業するのとどちらが収穫がありそうか、など下世話なことは聞けない。しかし、そうした生活と芸術の問題は近代から現代までずっと水面下で存在してきている。生活のなかに芸術があるという言説(市井に身を置きながら心を遊ばせることができることを上隠というらしい。良い隠遁らしい)に首肯しつつも、やはり働きたくないのである。筆者は義務教育のときから時間を拘束されるのを厭いつつ通っていたのでそういう性格なのだろう。シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』は共感する点がいくつかある。以前、エリック・ホッファー『波止場日記 労働と思索』を読んだときも共感した。副題の通り労働と思索は勤め人で文章を書く人の重大なテーマのひとつだ。前置きが長くなった。本文は『工場日記』を読む日記である。そんな長い本ではないので日記とはいえ短期間なものになるだろう。 一日目 筆者は先週から激務がたたって気分が落ちてしまっていた。気分転換のため午後半休をとった。散歩や洋食ランチを楽しんだのち、十分な昼寝をし、溜まっていた疲れをとる。さて、『工場日記』を読み始めよう。日記形式なので簡潔に労働内容が記されている。鉄鋲打ちや溶鉱炉の作業など危険かつ重労働である。力仕事ばかりだが所謂女工が従事していたのは驚いた。「穴あけ作業をしていた女工が機械に髪を巻きこまれて、一房ごっそり抜けた」という記載もある。ヴェイユも働きだして暫くすると体調を崩している。過酷な職場だ。プレス機を扱っているなら、まだ書かれていないが指を落とすこともあるだろう。時間だけみると週四十八時間の拘束なので悪くない。日本のサラリーマンはその一・五倍は拘束されている人も多いだろう。朝早いようで、あくまで疲労がなければ、午後は余暇に使えそうだ。給与は出来高制で単位はわからないが僅かなものということは読みとれる。計時係の恣意的な判断で、時間あたりのノルマが設定されて達成しないと減給されることを、ヴェイユは先取りされた時間の体系と知的に表しているが内心はその仕組みに対する忸怩たる思いはあるようだ。計時係と作業の成果については、ヴェイユは細かく毎回時間単位ごとの成果を記録している。探求