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火の影 嵯峨直樹歌集『みずからの火』を読む

 一頁に一首という贅沢な構成と、『みずからの火』というタイトルと真赤な装丁の組み合わせにこだわりを感じる。美意識や色彩感覚を喚起させられる歌が多いのも、装丁と共通したセンスからくるものだろう。   菜の花の黄のひとかかえ闇に抱いて何の頼りになるのでしょうか   不安定な温《ぬく》い血のなかちょこれいと暗くつやめく小雨の夜に   点々と白いほころび枝に載るひとの思考の極小の渦  一首目は菜の花と闇が対照的だが、広い闇にぽつんと一抱えの菜の花の黄色があり、下句であてどもなさが醸し出されている。すっと口語でいうことで、重くならずあてどもなさが出ている。二首目は複雑な色彩感覚だ。上句は現実的に読んでいくと糖尿病みたいになるので、雰囲気で読みたい。不安定さのある生にちょこれいとがある。チョコレートは溶けて茶色くて何処か有機的だ。血のような肉体的なモチーフと結びつくことでシュールレアリスムな歌になる。三首目は飛躍が面白い。人間の思考の渦は最小のものは枝先の白いほころびだという。人間はたしかに渦的なものを持っている。塩基配列だったり輪廻だったり、白い渦は妙に納得させられる。   夕ぐれに黒く粗末な火事あって身をもつ人らうごめいている   スシローの賑やかだった更地には茎にからまるような秋の陽   水の環の跡形にじむコースター誰か確かに在ったかのよう  先に挙げた〈不安定な〉の歌や〈点々と〉の歌にもいえるが、人間に対して距離をおいたアングルや、不在を扱った歌も多い。夕ぐれの歌は影絵のような人がいるのみであるし、二、三首目は不在の在が題材である。スシローやコースターは街で見かける光景だが、過疎や、サード・プレイスのかりそめ感など現代は不在のものに溢れている。   黒々とおはぎ照る町ばあちゃんの三河タクシー駅へと向かう   暗緑の三河タクシーほの温《ぬく》い夕べの町をカラカラとゆく  在不在の話だが、上記のような歌は風景が少し前の時代のもののように思える。おはぎや、ばあちゃんという言葉の斡旋はノスタルジックであるし、おはぎにフォーカスされ、そこから町へカメラが引いていくカメラワークは映画的だ。二首目はまた不在を感じさせる。ばあちゃんを降ろしたタクシーがカラカラといくのだが、カラカラが軽い音である。空き缶や乾燥した骨をイメージさせる。  最後に好きな一首を挙げる。

金木犀の酒

 かりんの歌会のあとは二次会、三次会になだれ込むのが恒例だ。全体でいくこともあれば、若い衆で集まる気軽な日もある。2018年8月の東京歌会は三次会は若手でしかも3人程度の少人数だったので、かねてから気になっていた香港亭中野店にいくことにした。中野の赤ひょうたんやそのほか何件か開拓したり、再来店したりとしていたが、香港亭は線路沿いにあるので帰りによくとおるお店。半地下になっており、テラス席がある。看板はネオンサインのようになっており、電飾が並ぶ香港のイメージでかねてより行きたい店だった。  印象に残っているメニューは塩麻婆豆腐と干豆腐、桂花陳酒だ。塩麻婆豆腐は塩の字のごとく白い麻婆豆腐だ。醤っぽさがないというのだろうか、あっさりしてそれでいて花椒や山椒の風味が効いている。干豆腐は中華の定番らしい。細く刻まれたしこしことした豆腐だ。食感が面白い。桂花陳酒は金木犀のお酒で、香りも華やで、ロックが正解かもしれない。飲みながら思い出すのは寺山修司『田園に死す』の「善人の研究」という長歌だ。〈花食ひたし、といふ老人の会あり。〉ではじまる長歌で、よく土着的とも評される後期寺山の世界観のうちのひとつの作品であろう。なんとなく柳田國男『遠野物語』を彷彿とさせる(恩田陸の『常野物語』も好きだ)。若い歌人が三人、香港のような店で花の酒を飲みながら文学の話をすると書いたら詩的だろう。なんとなく星菫派的な感じがする。そういえば歌林の会の先輩の話を聞くと、歴史のなかにところどころ中華料理屋が登場する。香港亭で花の酒を飲んだこともいつか誰かに話そうか。