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オフィスからの抒情 ユキノ進歌集『冒険者たち』を読む

 フルタイムで仕事をすると一日八時間で週五日であるが、通勤時間や、当たり前のようにある残業を考えると人生の何パーセントを労働に費やしているのだろうか。ユキノ進歌集『冒険者たち』を読むと職場詠が多いという感想をまず持つ。   往来で携帯越しに詫びているおれを誰かがビルから見ている  ユキノ進『冒険者たち』   「プロダクトのパーセプションをシフトします」いったいおれは何を言っている  経済活動は言わずもがな人間ならではの営為で、さらに第三次産業が日本の主力産業になってから、形式的操作が主たるものになり、ますます生物が糧を得るという形式からずれていく。一首目は詫ている私を醒めた目でもう一人の私がメタ的な視点で見ている歌だ。いや、詫ているのは私ではないかもしれない。そうした自己認識のブレはサラリーマンはある程度共感できるのではないだろうか。二首目は、ビジネス用語へのシニカルな目線がある。PDCAサイクルや、ブレインストーミングなど、経営学の概念は労働を科学的、組織的にした反面、先に述べたように、ふと我に返ると何をやっているのかわからないときがある。   男より働きます、と新人の池田が髪をうしろに結ぶ   ランチへゆくエレベーターで宙を見る七分の三は非正規雇用  職場は経済活動を行う社会である。当たり前ようだが、それゆえに、社会問題の最前線でもある。一首目はジェンダーが主題のようである。いまやビジネスの場でジェンダーなどという議論は古いようにも感じるが、現実問題組織や、個人の価値観のなかには依然としてジェンダーへの意識が低いこともあるのだろう。そうした状況に耐える強さを池田は見せるのだが、髪をうしろに結ばなければいけないのは、武装しているということだろう。二首目は雇用問題から格差問題を導き出す歌であろう。派遣社員としての短歌は比較的若手の歌でみられ、たとえば原田彩加の『黄色いボート』の〈もうお会いすることのない方々へ一枚一枚菓子を配りぬ〉などが想起できるが、ユキノ進は逆の立場である。派遣先からの歌は意外と少ないのかもしれない。こうした切り口は職場詠から社会詠に広がりが出て、モチーフのバリエーションとしてはいいのだが、手法としては今日多く使われており、既視感を感じてしまうことは否めない。   まさか俺が、まの抜けた顔で水を飲む死ぬ時もきっとこの顔をする   贄

双眼鏡からみえるもの 山田富士郎歌集『商品とゆめ』を読む

 あとがきで山田は資本主義と芸術について触れている。商品の変遷と短歌のビジネスチャンスとしての可能性についても示唆している。社会的状況においても、歌壇の状況においてもそうした商品的な雰囲気のあるなかで、ゆめについては細かく言及されていない。さて、歌を読んでいこう。    (津久井やまゆり園、19人死亡26人負傷)   効率を追つてここまで来しわれらわれらの子供植松聖は   売却され十字架はなしルター派の質素なる教会歯科医院となる  一首目は津久井やまゆり園の殺傷事件を題材にした歌。植松被告の異常性や、障害者に対する潜在的な悪意があるのではないかという社会不安が広がった。植松被告が全く異常だということならば、異常だと一蹴し、加害者の思想にあまりフォーカスは当たらないだろう。しかし、メディアに多く取り上げられたということは、一蹴できないなにかがあるからだ。その何かのひとつを引用歌はいってしまっているのかもしれない。二首目も資本主義が文化を駆逐する一場面だ。歯医者は資本主義的かといわれると、医療は社会保障に分類されるので必ずしもそうとはいえないが、歯医者はいまやコンビニより多いといわれたりするほど増えており、準市場色が強くなっている。ここでコンビニを詠みこむとベッドタウン寄りの景がたつが、ベッドタウンよりさらに都心から離れるとやはり歯科医院なのだろう。   白鳥を食ふゆめこのあき二度目にて煙草すふゆめいまだ見ずけり   ‎川底にまどろみをればつんつんと魚がつつくきみの乳首が   ‎ローソンに雉子《きぎす》弁当買ふはゆめ妻と入りゆくローソンも夢  ゆめの歌を引用した。ゆめなので幻想的なのは当たり前だが、どの歌も幻想的で不思議な詩性がある。一首目は白鳥を食うというのだが、エロスを感じる。山田はバードウォッチャーなのだが、この白鳥はエロスからの投影のように読める。二首目も美しい歌である。心象風景として片づけられないのは歌集全体で、〈赤啄木鳥《あかげら》か大赤啄木鳥《おほかげら》のドラミング倒木おほき右のなぞへゆ〉や、〈‎飯豊には熊多きゆゑ南部鉄もてつくられし鈴を買ひたり〉など美しい自然が詠み込まれているからで、歌集全体の雰囲気がこの歌に説得力を持たせる。三首目はローソンや妻など卑近な対象が登場する夢だ。夢がマトリョシカのように重なるというコンセプトは映画