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6月, 2022の投稿を表示しています

デュープロセス

  アマンダ・ゴーマンを知ったのは米国のバイデン大統領就任式の報道を見たときだ。当時は就任式に詩の朗読の時間をつくるとはバイデン大統領は文化に対して理解があるし、トランプ前大統領とは対照的だな程度にしか思わなかったと記憶している。実際にアマンダの詩も日本のメディアは一部分しか取り上げておらず、訳がいまいちだったので、多様性が主題で、でも政治に凭れている気もするという印象であった。アマンダ・ゴーマン著、鴻巣友季子訳『わたしたちの登る丘』が上梓され手軽に作品を読むことができるようになった。声は断片的になるし、消えてしまう。文字になるとしっかり読めるので有難い。   朝が来るたび、わたしたちは自問する。   どこに光を見出せるというのか?  導入部分は比喩的に閉塞感を表現している。アマンダの活動領域から察すると国内の人種差別が主だと思うが、まだ導入部部であるし、聴衆の肌の感覚としては気候変動や経済成長の低迷や世論の分断なども想起してよさそうだ。詩歌で考えると穏当な導入という感じだが、朗読で伝えなければいけないので詩的言語と読者に届きやすくするための平易さのバランスを考慮したのだろう。   わたしたちはこういう国と時代を継承していこう。   奴隷の末裔にしてシングルマザーに育てられた娘も、   大統領になる夢をみられるような。   と、思えば、その子はいま大統領に詩を暗唱する役まわり。  訳者解説によると「マイノリティの若い表現者が、多人種多文化の強大なアメリカという国家の大統領就任式で(特に白人優位主義と、それに抵抗するBLMなどの反対運動の対立が深まっていた数年間の後に)力強い「声」のメッセージとして「全世界に」届けたものである。」と書かれており、引用した箇所はマイノリティの若い表現者を語る場面になっている。訳者の解説で十分なのだが、短歌的に細かく言葉に着目すると〈継承〉という言葉は対立で混沌としつつも〈光〉が全くないわけではないことを示唆している。まだ継承し改善する余地があるということだ、そして〈その子はいま大統領に詩を暗唱する役まわり。〉と自己戯画化している。この自己戯画もマイノリティであるアマンダが〈大統領に詩を暗唱する〉という社会的に承認されたポジティブな部分と、〈役まわり〉という含みのある言葉で構成されている。〈役まわり〉というのは本来は多様性のある社会は当然

批評がわからない

  筆者に批評コンプレックスがあるのは間違いない。大学に入ったときに研究法の授業で批判的思考をもってして物事に接すべしなど習って以来は我流で批評ごっこをしてきた。よって文芸批評などよりわからず、精神分析学的批評(元心理学徒なので精神分析学自体は齧ったが)、脱構築批評などいわれてもちょっと他人事である。しかし、雑誌で時折散文の依頼を頂戴するものだから、なるべく熱心に勉強してうんうんと論点を絞りだして書いている。一方で、SNSの「いいね」や、論争を見かけない昨今は物事の本質が見えてこないような気がしてやきもきもする。漠然とした肯定は毒にも薬にもならないと思ってしまうのは筆者が古い人間だからであろうか。前置きが長くなった、府中でgekoの会の会合の前に読もうと購入した加藤典洋著『僕が批評家になったわけ』について何か書きたいと思ったのだ。なんとなく手にして良書に出会うのは読書の神様に感謝するしかないが、実は本書を手にしたのはテリー・イーグルトン著『批評とは何か イーグルトン、すべてを語る』に挫折したからだ。イーグルトンの語る英国は訪れたことがなく(そもそも外つ国に行ったことがない)、また英米文学の素養もないので読むのに苦慮したのだ。  で、批評とは何かという話なのだが、加藤は本を百冊読んでいる人間と勝負するのに、自分も本を百冊読んでそこに書かれたものの良し悪しを云々するのは学問とどこが違うのか、本を百冊読んでいる人間と、一冊も読んでいない人間がある問題に対して自分の思考力を頼りに五分五分の勝負ができるのなら面白いのではないか、と批評について語っている。ニュークリティシズムも踏まえての批評観なのだろうが、一読者としては勇気づけられ何やらもりもり批評する気になってくる。また、加藤は批評を「ことばで出来た思考の身体」と表現しており、批評に対してすそ野を広く持っていることは、後に批評の酵母が吉田兼好の『徒然草』にあるという視点にもみられる。第二章は批評の酵母と加藤が称する、日々接する物事に存在する批評といったものが紹介されており、手紙・日記などの文学にも包摂されうるジャンルや、科学論文、名刺、マンガなどが取り上げている。広く批評の裾野を広げて、続く第三章の「批評の理由」、五章「批評の未来」と深く切り込んでいくのだが、乱暴にまとめると小林秀雄以降の批評界の難解化を省みつつ、哲学のなか

府中印象記

  本日は府中でgekoの会の会合がある。文学フリマは面子が揃わず、そのおさらいみたいな会だ。かくいう私も文学フリマの設営をした後にお暇した口である。府中というところはわが地元所沢からアクセスしにくいと思っていた。新宿まで出て小田急線、コロナ禍前ならまだしも腰が重くなった今では到底行けない。しかし、府中本町までは乗り換え一回で、すこぶるアクセスしやすく、今回の会合で府中が意外と近いことが判明した。  さて、府中本町からすぐ「国司館と家康御殿史跡広場」なる公園がある。駅前に遺跡というのはなかなか文化的な街である。人工芝の上に高校生がそのまま寝転がっている。木の柱が十数本立っており、かつての武蔵国の賑わいを後年に伝え、奥には万葉集にちなんだ草木が植えられているという庭があったが、山桜と片栗は名札付きで確認できた。あとは勿忘草は名札だけあり、ベンチに寝転がっている高校生がいる。   不来方《こずかた》のお城の草に寝ころびて   空に吸はれし   十五《じふご》の心 石川啄木『一握の砂』  啄木の歌を想起したが、人工芝の上にいる高校生は数人おり、現代という俗っぽさも手伝い、十五の心とは案外、ダルい、かったるいというような言葉で解消されてしまう抒情なのかもしれないと思いつつ公園を後にする。あふれる時間とエネルギーを浪費する贅沢を今となっては羨むばかりだが、たしかにその頃はやたら眠かった記憶がある。  さて、公園から大國魂神社の鳥居がすぐ見える。参拝は二度目だが、境内に市立図書館や郷土資料館、宝物殿、冠婚葬祭も請け負っているので、神社としてはかなり成功しているほうだろう。参拝客も観光地と言わんばかりにいた。「ふるさと府中歴史館」は無料で入館できる。府中の縄文時代から近現代まで歴史的資料が紹介されており、矢じりや磨製石器、土器はもちろん、古代から中世にかけて青磁器などの器も見ることができる。先の公園でもあったが、かつての府中市は国司が滞在し、青磁器などの渡来品を関東に行き渡らせる機能を果たしていたようである。近辺には古墳や札所、また古木など見どころがあるようだが、空模様も怪しいので早々にカフェに引きこもる。  駅ビルのフードコートは比較的空いていて読書がしやすい。同じビルの本屋で購入した加藤典洋著『僕が批評家になったわけ』を読みながら密会の時間までの時間をつぶす。家に置いてきたテ

夢野久作著『能とは何か』を読む

 夢野久作の能の入門書というのは面白いに決まっている。エログロナンセンスといわれた世界観を思い出すと、能の抱える闇と共通するところがあり接収してきたのかもしれないなどと思うと久作と能が急に接近してくる。   私は無学な、お国自慢の一能楽ファンである。だから斯様に日本の芸術……特に能楽価値を認めて、日本人に指示してくれる外人諸氏に対して一も二もなく感謝の頭を下げるものである。  前半、大正時代に西洋各国で能が発見され研究、評価されている状況を踏まえての、久作の立場の表明である。ちょっと斜に構えるところがすでに本書が面白い入門書であることを予感させる。能とは猿楽云々というお決まりの件ではなく、若干偏愛ともいえる語りのもと能を鑑賞するのも面白い。これは野良愛好家の特権ともいえる。   純乎たる芸術価値のみを目標として、五百年の長い間俗家に媚びず……換言すれば興行本位、金銭本位とせずに、代を重ねた名人達の手によって、洗練に洗練しつくされて来た能の表現の尖鋭さ、芸術的白熱度の高さは、   能というものは、何だか解からないが幻妙不可思議な芸術である。そのヨサを沁みじみ感じながら、そのヨサの正体がわからない。襟を正して、夢中になって、涙ぐましい程ゾクゾクと共鳴して観ておりながら、何故そんな気持ちになるのか説明出来ない芸術である  久作によると一般的な能好きの意見らしい。芸術至上主義が長い間温存され洗練されてきたことが、能の歴史からみた凄みである。他の芸術分野は権力に媚びたり、一代限りで終わったりすることもありその点は特異である。また、武士などは能狂いになり、権力者が能に取り込まれるという面白い現象もある。能は長いこと沼であり続けているのである。   千軍万馬を往来した将軍の風格、狂瀾怒濤に慣れた老船頭の態度等に現わるる、犯すべからざる姿態の均整と威厳は見る人々に云い知れぬ美感と崇高感を与える。その他一芸一能に達した者、又は、或る単純な操作を繰り返す商人もしくは職人等のそうした動作の中には多少ともに能的分子を含んでいないものはない  久作による能のエッセンスである。将軍、老船頭とただ者ならない人物、そしてそれに比肩する能力者が能的分子を含んでいるという。単純な操作を繰り返すところに能の分子があるというのも共感するが、改めていわれると柳宗悦の民芸運動のような雰囲気もある。「筆者をして

米川千嘉子歌集『雪岱が描いた夜』を読む

  支持率のそれでも上がる国にゐて電車のひとをつくづくと見る   女性専用車両に朝陽は投げ込まれ疲れたひとの顔を照らしぬ   前後に子を乗せる自転車がつしりと「たたかふ母」を比喩とおもはず  時代を詠っている歌が印象に残る。一首目は現代の閉塞感を感じる。支持率という形で民意が消極的に現第一党をうべなうという現象が、〈電車のひと〉に表現されている。そんなモッブのなかに自らも置きつつも疑問を感じ〈つくづくと見る〉のである。〈つくづくと見る〉にはその閉塞感や消極的なうべないとは何か知りたいが、漠としているところが込められている。二首目はポストフェミニズム的な歌である。フェミニズムが周縁化されたとされる社会に疲れてしまった女性がいる。朝陽はポジティブなモチーフなのか、それとも本質的でなくキャンペーン的に実施されるアファーマティブアクションのような不必要な照射なのか読みが分かれる。筆者は後者だと思う。一首目や二首目は批評性が強いが、三首目は実際的な歌である。〈比喩とおもはず〉というやんわりとした否定は、〈「たたかふ母」〉というわかっているようで、母を〈母〉という役割として捉える見方を否定していることと通じるところがある。   たくさんの死者と生きゐる老人がひとり分選るこの世の南瓜  人の手触り、人生の手触りがする歌である。たくさんの死者と老人の関係が気になるが、おそらく老人は不特定多数の老人で、死者も含まれる。老人、それも独り暮らし、はスーパーでひとり分の南瓜の煮物を買う。高齢化社会、超高齢社会はいままで数多く詠われてきただろうが、この歌はひとつの到達点のように思われる。   一瞬を全力で生きるのは怖いこと断髪の岡本かの子はわらはず   ざくざくと紐かけぐいと引き絞る これは〈近代の女〉の塊  刹那的でダルな現代があれば、一瞬を全力で生きる近代の女、岡本かの子がいる。二首目の〈近代の女〉というのがかの子かさだかではないが、晶子であれらいちょうであれ、書物を紐で纏めるのである。近代の女が現代を見たら隔世の感であろう。いや実際のところ世を隔てているのではあるが。米川のなかに棲む近代の女を一度紐で纏めるのである。近代の価値観を踏まえつつもう一歩先にいき何かを見ようとする意識が感じられる。   湯豆腐を食べればだれかわがうちに温《ぬく》とく坐りまた去るごとき   植物だけを食べる友ゐ

森敦著『意味の変容』を読む

  寓話に仕立てあげられた哲学という読後感がある。その哲学も森が数学が好きであると巻末の「意味の変容 覚書」にあるように数学の要素がある。本書は「寓話の実現」という章で、のっけから「壮麗なっものには隠然として、」と始まる。壮麗なものとは邪悪、怪異、頽廃、崇高、美麗、厳然と反対概念を包括した全体概念であるという。さて壮麗なものとして登場するのは蛇である。二種類の蛇、類も稀な壮麗な蛇、そして壮麗なるに似た無数の蛇が出てくる。類も稀な壮麗な蛇は賢明に森に身を隠し、その姿は幻影を生じさせるほどであるらしい。牙には敵を斃す毒が秘められている。壮麗なるに似た無数の蛇はそれらがない。壮麗であると思い日の当たるところに出て、挙句の果てに人間に切り刻まれるのである。森は蛇を例にだし貴なるものと俗なものの二元論を展開させたいわけではない。さらにいうと壮麗なるに似た無数の蛇は議論の俎上にない。類も稀な壮麗な蛇は自身のなかに幻術があると思っていたが、幻術の中にあろうとしているというのだ。わかりにくい寓話だがそのはずである。次の章「死者の眼」の劇中劇ならぬ寓話中寓話なのだから。  「死者の眼」は工学会社で照準器をつくっている主体が登場する。「内部+境界+外部で全体概念をなすことは言うまでもない。しかし、内部は境界がそれに属せざる領域だから、無辺際の領域として、これも全体概念をなす。したがって、内部+境界+外部がなすところの全体概念を、おなじ全体概念をなすところの内部に、実現することができる。」ということが壮麗な蛇のエッキスのようだ。「意味の変容 覚書」によると数学でいうところのトポロジーらしい。本書を通しで読んでいるときは雰囲気で分かった気になっていたが、改めて読み返してみると前半しか理解できず、全体(全体概念の問題だけに)の内容となるとちゃんと理解しているか心配になる。筆者の数学の素養がないからかもしれない。  さて、文芸の話なら多少分かる。主体の工場は戦闘機の機関砲の照準をつくっている。照準眼鏡は倍率一倍の望遠鏡を利用したもので、覗くことで外部(ターゲット)は焦点面上に実現される。つまり、倍率一倍の望遠鏡に十字を刻んだ焦点鏡を置くことで、照準眼鏡となるのである。本書では「望遠鏡によって得られた外部の実現が、見た眼の現実と接続するとき、その倍率を一倍という。」といっている。そして文芸の話に