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引き受けていく歌 齋藤芳生歌集『花の渦』を読む

 『湖水の南』以降、「かりん」で学習塾の場面の歌がよく詠われているのを目にしてきた。どの歌も子どもたちのころころと表情が変わるさまや、子どもが感じる生きにくさが詠われており、ときに楽しくときに考えさせられる歌だなぁと読んでいた。本歌集ではそうした学習塾の歌も多く収められており、震災詠が印象的な『湖水の南』からパラダイムシフトしている。   みんな豊かでお菓子のように優しくて この国の子の満面の笑み  『桃花水を待つ』   あ、まちがえた、とつぶやく子どもの鼻濁音嬉しくてぽんと咲く木瓜の花  『花の渦』  まずは子どもの歌から読んでいきたい。はじめに本歌集は学習塾の歌が多く収められているところに特徴があると述べたが、子どもの歌と前・前々歌集でも詠われている。『桃花水を待つ』から一首引いた、〈この国〉というのは、齋藤が日本語教師として赴任していたアラブ首長国連邦のことである。〈みんな豊かでお菓子のように優しくて〉は子を取り巻く環境であり、日本にはなかなか見られない豊かさや優しさがあるということも間接的にいっている。満面の笑みはお菓子を目の前にしたときのような屈託のない笑顔であるといい、上句の比喩を回収している。次の歌は学習塾の歌である。読点や二箇所ある句切れが跳ねるような韻律を生み出しており、歌意と相まって生き生きと子どもを描いている。木瓜の花は小さく子どもらしい可愛さがあり、ぽんと咲くというオノマトペもぴったりな形状をしている。アラブと日本と国は違うが子どもの小さくも純粋な生命感が歌から感じとることができ、ローカルな場面から普遍的な抒情へつながっていることがわかる。   「花しかねえ」と中学生我ら笑いいき冬の日差して遠き桃畠  『湖水の南』  しかし、『湖水の南』では東日本大震災という背景が歌集にあり、子どもの笑いは様々な文脈を帯びてくる。本歌集で子どもの笑いについて考察するには縦断的に歌を読んでいく必要があるのかもしれない。   高村、いいえ長沼智恵子知らぬ子も知る子も紙を切るとき静か   パレスティーン、と少年答えその眼伏せたり葡萄のように濡れいき   わかってもわからなくても頷く子頷けば雨、今日は花の雨  学習塾での子どもの観察を通して、子どもの歌が多様な広がりを持つことがわかる。工作かレジュメをノートのサイズに合わせているのかはわからないが、紙を切る動きから長

肩こりの具合(十五首)

  肩こりの具合 議事録を黙々とちぎり築きたる一座の山に息吹きかける ヘアピンが当直部屋におちている眠れず月を見あげる人の 満月のかたちの錠剤かばんから出す人と話すスーパームーンを 民謡の「一週間」の早さもてTO・DOリストを消化しており 線路内の石塊のごと男いてスマートフォンで啄木を読む 下井草から鷺ノ宮まで乗り過ごす白鷺に会えるかもしれぬから 肩こりの具合を君は気にかける深夜のメールが続く週末 青きバラ表紙に咲いた小説を君に貸し出す期限さだめず 君は騎手われは遅馬 繋ぐ手で操られいる右へ左へ 薬局にマスクがならぶ笑顔でも悲しき顔でも見せてはならず さしあたり肘と膝かなさみどりの中に躑躅がぽつぽつと咲む 簡潔に相談記録を残したり男の花瓶の椿の落つを ぜんざいを目当てに二人で通いたる茶店にホルスト「惑星」流る アキレスが亀に追いつくことできぬもどかしさかな青竹を踏む 振り向けばアキレスなどはいなかった一匹で歩く亀なり日本

はぁ出家しよ 川合康三著『桃源郷 中国の楽園思想』を読む

 いにしえの人が政争に巻き込まれたとき、権力や汚濁に倦んだとき、そして現代の私が勤めに行くときに思うことは隠遁したいということだ。時代や動機は違っても隠遁したいという気持ちは一緒である。SNSを見る限り共感する人も多いだろう。ひょっとすると人間は隠遁したい動物なのかもしれない。  そんな思いで手にしたのが川合康三著『桃源郷 中国の楽園思想』(二〇一三・九/講談社)である。桃源郷というと仙人や猿が暮らし桃を食べてと、筆者のイメージが貧しいからか具体的なイメージができないのだが、どうやら無理もないことである。中国における隠遁とは官を辞し山にはいるようだが、一家で入るようだ。日本では出家し、その後遁世するという二段構造で、出家は仏教の教団にはいるということなので厳密には隠遁とはいえないらしい。なお、西洋のハーミットは砂漠に住むものという語源があり風土により隠遁の様相は様々のようだ。スターウォーズでオビワンが砂漠に住んでいたが、ハーミットに近いのかもしれない。隠逸といっても時代や個々人によって違うとは前述したが、本書では政治への嫌悪から個人の私的生活の享受という流れや、自己実現としての隠逸など時代によって動機は異なってくるという。たとえば無一物の生活を享受し樹上で生活していた許由という人物は、ある日水を飲みやすいように瓢をもらった。しかし、木に吊るすとうるさいということで捨ててしまったという。無一物の生活を歯を食いしばって送ったのではなく、簡素さを愛でていたということで、たましいの次元で究極のミニマリストなのである。また、潘岳という人物は自らの官吏としてのキャリアを振り返り、拙いとし、そんな拙い私は潔く引き下がるとして洛陽の都市と郊外の境界に住居を構え、池や数多くの果実が実る庭をつくった。そして「人生安楽ならば、孰《たれ》か其の他を知らん。」と述べる。潘岳から白居易や陶淵明につながっていく。白居易は若い時から高級官僚の出世街道を歩んできたが隠逸の願望は若いころよりあった。それが実現できたのが五十三歳で洛陽の邸宅を手に入れたときだ。そして五十八歳からは閑職につくことができ官と隠の両立に成功する。白居易は中隠と呼び、山に隠れるのを小隠、真の隠者は市井に住む者で大隠であるとした。白居易は社会的にも生活でも満足する境遇に落ち着く。漢詩にその思想は表れているが、川合の訳で一首引

長靴と羽根つき帽子(短歌連作)

  長靴と羽根つき帽子 春泥を踏みつけてゆくあなたからもらった長靴ならば滑らず 君のためならば人食い鬼を食う生ごみのような臭いがしても 長靴と羽根つき帽子が似合いけん弁護士なりしシャルル・ペローは 春の風ふくみてふくらむ野良猫は長靴をはきし猫と思えず 子猫にはにゃんと言わずに長靴がほしいかと問う満月の夜 あるじなき長靴をはいた猫はゆくマーガレットを蹴散らかしつつ ハロウィン短歌ネットプリント「HALLOWEEN JUNKIES 4」(二〇一九・一〇・二五)所収

噴水家族(短歌連作+ひとこと)

  噴水家族 セスナ機のように着水する鴨よ水の上では目を細めおり 噴水のながれで鴨とわたくしがぐるぐるまわる夏の日射しに 銅製の少女が踊る池のあり日本にウンディーネの話なし ふきあげの鴨の家族の距離感よサラリーマンが熱心に撮る 〈ひとこと〉 近くの駅のロータリーに鴨の親子がいるが、家族って何だろうと考えさせられる。 (「鳥ネプリ」二〇一九・十一・二四 所収)