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ピーター・シンガー著『動物の解放』(一九八八・九/技術と人間)を読む

  ピーター・シンガーは環境倫理の本で脱人間中心主義の文脈で出会った。環境倫理は生態系の破壊や、非人間の動物の権利について言及されており、本書も名前のとおり動物にも生きる権利があるというような内容なのだろうと漠然と考えていた。  本書は多くを動物実験の悲惨さや畜産工場の非人道的な管理、そして動物が経験する言葉を絶する苦痛とその先の死を提示している。動物実験においては医学、心理学、薬学、放射線実験など対人サービスが背後にあると思われがちだがどうも違うようだ。脱水症にはなるべく早く体温を冷やした方がいいという実証のために多くの犬が炙られたり、人工的なうつ状態(セリグマンの学習性無気力の実験)をつくりだすために犬に電気ショックを与えたり、兎を拘束しクリップで瞼を強制的に開かせ高濃度の薬品を垂らすなどである。畜産工場はさらにグロテスクであり、動物の受ける苦痛を考えても想像を完全に超えている。  ピーター・シンガーはスペーシズムであるとこの動物のおかれている状況をあぶりだし、ベンサムのいう考慮するには苦痛を受けていると感じられるかが基準となるという言説を引用し、動物の解放を訴える。具体的な行動としてはベジタリアンになるということだ。消費者の意識が変わることでアメリカでは大資本である生産者の考えが変わる“きっかけ”になるとしている。また本書では肉食中心からベジタリアンに移行することで、非効率的な栄養生産システムである畜産が縮小し、飼料であるトウモロコシや豆が飢餓に苦しむ地域に分配できるという。また、肉なしでもたんぱく質を確保できることも実証しており、巻末にはレシピまでついているのである。実際はトウモロコシなども先物取引の対象で畜産が縮小したら値崩れしてしまい生産自体も縮小しそうなのでピーター・シンガーのいうようにきれいにはいかないだろうが、いまよりマシな栄養素の再分配ができるだろう。  筆者は意志薄弱につきベジタリアンになることはできない。積極的な肉食を避けても、食卓に並ぶわずかな肉は食べるからである。また、日本において外食する際に完全に動物に苦痛を与えていない食事は探すが困難だからだ。埴谷雄高の『死靈』のように筆者は死後に多くの動物から糾弾されるだろう。さて、動物の解放だけではなくスペーシズムは人種、宗教のような国際的な問題や、貧富など身近なところまで無意識に無数に存在してい

井出英策・他『ソーシャルワーカー 「身近《みぢか》を革命《かくめい》する人《ひと》たち」』(二〇一九・九/筑摩書房)を読む

  新書はどちらかというと初学者が専門分野を垣間見るためのものだと思っていたが、本書は社会福祉の現場で働くソーシャルワーカーに強く訴えかけてくるものがある。ソーシャルワーカーは、定義はいろいろあるが、それらを踏まえたうえで筆者は社会福祉(に限らず日常でも)の場面で、生理心理社会的な問題を抱えた人に対して相談にのり、福祉的な助言を行ったり、援助過程で地域の専門機関との連携を図ったり、ときに社会システムの変革を社会全体に訴えかけるような職種だと認識している。概ね社会福祉士という国家資格を所有して障碍者施設や高齢者施設、病院に勤務している。一見、介護や医療の問題と経済の問題とバラバラにみえるが、そうでもない。病院の入院や施設の入所は一か月あたり十数万円かかるし、年金も全額納付していなかったり、基礎年金のみだと老後に限らず、何かしらの人生上のトラブルで障碍に見舞われたときに、自らの身体だけではなく経済的な問題や家族問題などが顕在化してくるのである。  実践の歴史は長いが、社会福祉士は国家資格が法定されてから三十数年しかたっていない。平成が終わりある意味総括の時代で本書は上梓されたのである。本書は特に1.ソーシャルワークの原点と現任者とのギャップ、2.ソーシャルワーカーの国家資格化と本旨のギャップ、そして、3.現医療福祉サービスとケアとのギャップを指摘している。ソーシャルワークの想定している支援もマクロ(対クライアント)・メゾ(対地域、小規模のグループ)・ミクロ(社会全体)と大きく3段階に分かれているので、本書の問題提起とつながっており、ソーシャルワーカーらしい章立てである。  1.については日本のソーシャルワーカーは多くは医療福祉を業とする営利法人に雇用されている。本書では介護保険法施行以降準市場と化している福祉業界と、診療報酬改定のたびに市場化されていく医療業界と、市場原理に合わない純粋な福祉がアンビバレントな関係であることを指摘する。市場原理から効率性が求められ、施設の稼働率や、退院のスピードばかりに焦点が当たらざるを得ない社会的構造と、それに加担しているソーシャルワーカーがいるということについて問題提起している。原点に返るとソーシャルワークの母であるメアリー・リッチモンドはソーシャルワークとは「人間と社会環境との間を個別に、意識的に調整することを通してパーソナリティを

佐藤春夫著『田園の憂鬱 或は病める薔薇』を読む

 都会の生活に疲れた文士気質の彼が田園に引っ越して、田園の民俗学的な雰囲気の中で生活をするという小説である。住民から二匹の犬を巡って狂犬かと疑われ、危害を加えられそうになり、彼は気に病むのだが、人々の生が積み重なっていく田園の物語に吸収されようとする彼が抵抗しているようでもある。また、棒で打つという折檻の方法までが土着的な暴力性を想起させる。また、作品後半で彼はドッペルゲンガーのように彼の影に出会う。影は現実の彼と比べてどこか軽やかであり、田園に吸収されたシャドーとしての彼と読むこともできる。彼の現実と、田園に積み重なる民俗誌的現実の交錯がみられるが、前者は都会や彼の記憶や業のようなもの、後者は死やスピリチュアルな世界とつながっているように思える。彼の住む家や、その庭に咲いている四季折々の木花など、二つの世界を跨っている事物が作品の中に多く散りばめられている。

かりん集(「かりん」二〇二一・四)を読む

  結社誌の作品は歌友の近況を知るという副次的な機能もある。特に昨今コロナ禍で歌会がオンライン中心になり、今まで以上にその副次的な機能を感じ入る。   追いつめて追いつめられて感情がのっぺらぼうに近づいていく 平山繁美  前の歌に看護師としての歌もあるが、医療従事者は緊急事態宣言に関わらずずっと行動制限を職務上課せられており、さらに単純な発熱でも感染症対応をしなければならないという高負担の現場である。引用歌には具体的な描写はないが、長期戦で疲弊していく現場で自我を殺し続けていく状況が慢性化している様子が表現されている。のっぺらぼうという柔らかな表現であるが、鋭い表現にしようと思えばいくらでもできたはずだ。のっぺらぼうに抑えたところに平山の文学的な態度がみえる。   蛇口からみかんジュースが溢れでる空港ロビーは今、静かなり 檜垣実生  きっとポンジュースが出る夢のような蛇口があるのだ。一首で読むとコロナ禍の歌であるという読みで終わってしまうが、〈人格をなくしたように抜け落ちたまゆげまつげの生れくるかゆさ〉という闘病が一段落した歌もあり、退院ののち世間が様変わりしたという浦島太郎になったような抒情があるように思える。様変わりした光景で象徴的だったのがポンジュースの出る蛇口のある空港ロビーであり、ポンジュースは風土なのだと読んでいて思った。   この癖字書くひとのこと想像し缶ビール飲む楽しき日暮れ 長谷川典子  SNSもメールもそうだが、ITでの交流が当たり前になりいつでもつながっている(ように思える)私たちは、案外つながっていないのかもしれないと思わされる歌である。手書きの手紙のほうが癖字や、ハガキ、切手などからも送り主の個性が出るからだ。また、いろいろな手紙があるが、一生大切にしたい手紙というのもある。一生大切にしたいメールを保存し続けるのはハガキより難しい。ましてやSNSをや。缶ビールというモチーフも癖字の主を想像しつつ、主と杯を傾けるような雰囲気がある。  作品から生活の厳しさも垣間見える。読者もそれぞれ何かしらの困難を抱えているはずだ。そんなときに作品に共感し、ときに励まされ続けるのが短歌のよさである。文学とヒューマニズムに停滞した状況を突破する力があると信じている。