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無意識なフィルター (山川草木・社会の二重世界の中で生きた歌人 窪田章一郎著『短歌シリーズ人と作品5 窪田空穂』(昭和五十五・八/桜楓社))加筆

 「山川草木・社会の二重世界の中で生きた歌人 窪田章一郎著『短歌シリーズ人と作品5 窪田空穂』(昭和五十五・八/桜楓社) 」(二〇二一・一/短歌ブログ浮遊物、http://fuyuubutu.blogspot.com/2021/01/blog-post_19.html?m=1)の加筆に加筆したい。窪田空穂が文学御前会議のテーブルスピーチで、「五十年前の歌集と小説とを読み返すと、小説は見るにたえぬものも少なくないが、単かには今日も新鮮な感情がある」と述べたと紹介している。多分野のジャンルのなか、それも小説が力をもつ場で一石を投じる発言だった。しかし、宇野浩二「文学御前会議」では、空穂が何かぼそぼそといったで済まされてしまった。そのことについて、本書では窪田章一郎が補足して内容を明らかにしている。村崎凡人(「国文学研究」、一九六二・一〇)は章一郎の仕事を評価しつつ、宇野は斎藤茂吉に傾倒していたため観点を異にしていたようだとソフトに述べている。当時の時代感を把握しかねるが、宇野の文章において空穂の発言の内容が不明確にされてしまい、〈ぼそぼそ〉で済まされてしまったことはあまり残念である。アララギが有力な歌壇において無意識ながら力学がはたらいて、言説がモノクロになってしまった印象を受ける。空穂が新文学の立場で古典に光を当てたように、私たちも令和短歌の視点から近代を見つめると、先行研究にみられない発見があるはずだ。

時空を超えるきんつば 坂井修一歌集『古酒騒乱』から一首鑑賞

  人斬るは国のためぞとたからかに澄んだ声あり光るきんつば 坂井修一『古酒騒乱』  きんつばは刀の鍔が由来の菓子である。連作中ではきんつばから、鍔、鍔から武士のたましいと展開させている。武士の魂が危機に瀕するのは、徳川幕府が揺らいだ幕末であろう。歌では武士は人を斬ることで国に尽くしたというが、徳川幕府は新政府に敗北して四民平等、廃刀令などアイデンティティが失われていく。「人斬るは……」と叫んだのは幕府側のみだとは限らない。連作中に岡田以蔵も登場するので倒幕の志士でもあり得るのだ。志士も武士であり、国のために人を斬って、そののち刀を捨てなければならないダブルバインドがある。  連作中に、きんつばのなかのつぶは言葉を知らず暴れたがっているだろうという歌もある。島崎藤村『夜明け前』をちょうど読んでいて、この歌の核心に近づけたような気がする。幕府は徳川将軍家の威光を根拠に政治を行っていたが、月日が経ち次第に形骸化していく。参勤交代の廃止は各藩主にとっては経済的救済になるが、街道沿いと江戸の経済は回らなくなり不景気になる。そんな閉塞感があるなかで生まれたのが尊皇攘夷の機運だ。理論的背景に平田派の国学があったようだ。天皇と国学という理論的な後ろ盾があり、尊皇攘夷は理論的根拠と大義名分を得て多くの支持を得たのだ。歌に戻ると、武士、すなわち幕府側は慣例という根拠しかなくなってしまった。しがって説得力に欠くので、安政の大獄や新選組などの実力行使に出るのである。志士も以蔵の人斬りという通説を信じると言葉が足りず実力行使した人である。武士の世の終焉とともに、西洋文化と近代合理主義が日本に流れ込んでくることも暗示する歌である。  歌のみだと幕末に心寄せする歌だが、それだけではない。国のためという大義名分で行われる政治や、言葉の足りない反知性主義なども含意していると読めそうだ。

悪友は本当にいそうだ 榊原紘歌集『悪友』を読む

  雨の屋根つらなるプラハ ゴーレムの崩れたあたりに僕は立っている   Polizei《警察》のライトは青くPegida《ペギータ》の弾幕を裂くように照らして  ゴーレムはユダヤ人の話である。暴れた土人形だが無敵ではなく、額の羊皮紙に書かれてある真理という意味のemethのeを消してmethつまり死にすると崩れさるというものだ。土人形は日本の妖怪でも泥田坊がいるし、人間は泥から造られたという神話もある。われは雨のプラハの大地に立ち、大地から人について思いを巡らせる。ユダヤ伝承が下敷きにある連絡なので、ゴーレムを経由させるが、神話と日常が重なるような非日常感も湧いてくる歌である。次の歌はペギータという言葉がわからない。新語時事用語辞典によると「ベギーダは西欧諸国の移民政策による「欧州のイスラム化」への懸念を訴える活動をしている。」と説明がある。右翼よりの政治団体だがネオナチとの関係が指摘されており……など欧州ではまた複雑な政治思想の分布図があるようだ。意図的にペギータを隠していて、デモなどの集団を照らす青い警察のライトに質感があるように詠っている。特定の政治思想によるものではなく、政治団体に向けられるライトの規制的な文脈を歌にしている。この連作は文化や政治の現状など多角的に詠われており読み応えがあった。   こんな日に会う約束を 信号の点滅がやたらゆっくり見える   いうなればきみはメフィストだったんだ、教科書で唇《くち》を隠して笑う  歌集後半で特に君が登場する歌に顕著なのだが、過剰な修飾や、軽さが気になる歌もみられた。〈やたらゆっくり〉という表現はその一つである。修飾語を重ねると言葉が甘くなる。あえて意図しているともいえそうだが、今様にしたところで歌が甘くなると損するような気がする。また、メフィストについても、ゲーテ『ファウスト』や、そのモデルになった悪魔であっても単なるトリックスターではない。人間の業の象徴であり、ときにその魅力を、ときにそこからくる破滅を演出するのである。きみのファムファタルな側面は歌から読み取れるが、先の歌と同じように修飾が過剰である。   ここで生き延びると決めた背中だな二重のフードを整えながら   鉢合わせしようよ転生ののちに孔雀と螺子になったときには  連作「悪友」は悪友の存在感が立っている。二重フードを整えるという垢抜けなさと、決意が

山川草木・社会の二重世界の中で生きた歌人 窪田章一郎著『短歌シリーズ人と作品5 窪田空穂』(昭和五十五・八/桜楓社)

  本書は作家研究編と秀歌鑑賞編の二本立てになっている。作歌研究編は作歌前・明星投稿時の初期から、歌集を追って空穂の歌の変遷や交友関係、時代背景などホリスティックに論考している。   情熱を超えたる真《しん》の大愛はその子を思ふ父のみのもの   天地《あまつち》の創造主《つくりぬし》をば独ある男神《をがみ》と信じぬ遠き代《よ》の人  空穂の人格形成には父の生き方・存在感と、母から受けた愛が大きな位置を占めている。章一郎は空穂の父親像は若 いときの体験が底にあるが、全作品にも通底しているモチーフでもあるとしている。父という存在は儒教的な孝行ではなく、抵抗や超克という葛藤のもと人生を切り拓くための指針でもあったのだ。また信濃の風土は真っ白な天地が緑に包まれるさま、昼夜の差が際立っていること、霜、露が激しいものである。この自然美と厳しさが同居している風土によりロマンチストであると同時にレアリストとして徹底していく性格が醸成されたとしている。この性格は人に対しても及んでおり、「自己および他人を理性的に観察する透徹・深刻な性格」であると章一郎は述べている。当時の信濃は都会人が想像するよりもよっぽど国文学者や発句作歌がおり文化的な土壌があったことは空穂が随筆で語っているが、信濃は偶然にも文学者を形成するのに適した風土であったといえる。  同郷の太田水穂との交友ののち「文庫」、「明星」に参加するが、空穂は白秋や勇のように浪漫主義から耽美派の路線をとらずに、「明星」を後にする。章一郎は「〈自身を静かな境遇に見出したいといふ一事が中心の願ひ〉であり、その成就を、容易なことと思えない自己の課題としていた空穂には、新詩社の親しい社友たちが余りにも対社会的意識を持っていて、傷つけられることが多かった」と述べており、また、明星的恋愛歌と生活実感に距離があることも違和感があったという文学上のすれ違いがあったようだ。他にもちょうど鉄幹が女性問題で糾弾される怪文書が出回った文壇照魔鏡事件もあった時期でもあり様々な要因があり区切りをつけるのにちょうどよかったのだろう。「明星」に参加していたのは実に一年足らずであった。  第一歌集『まひる野』ののち何冊か歌集を出し、『空穂歌集』を上梓した。歌人としての活動には区切りをつけ小説の執筆に移行することになる。また、この時期に伊勢物語や源氏物語などの古典作品に

足あとに芽吹きあれ 横川節子著『ナショナルトラストを歩く』(二〇〇三・六/千早書房)

 イギリス、日本、ローカルな街、自然はどこにでも存在している。そしてしていってほしい。月次だがそんな思いは誰しもが抱いているはずなのに消えていく。本書はイギリスのナショナルトラスト運動を取材している著者が具体的なエピソードを交えて、自然と文化の味と、それが失われている現実を読者に伝えるものだ。  イギリスといえばワーズワースが賛美した自然の美しさと、アイルランドにひろがる草原を想起する。筆者は行ったことはないが、夜たまに目にする「世界の車窓から」でイメージがある。横川は旅を通してスコット人のアイデンティティや、息子にジョージ(農夫)と名付ける農家の誇り、牛が産まれるときの掛け合いからみてとれる自然の無垢な生命感を紹介する。  一方で、日本のエピソードはイギリスのようなロマンや広大さはなく、鳴き砂が石油の流出やプラスチックで鳴かなくなってきていることや、奈良屋が相続問題で事業継続できず、手を尽くしたが売却されてしまったことなど具体性のある社会問題(文化問題?)を提起している。奈良屋については歴史的な建造物や、それを支える無形文化遺産ともいえる職員の接遇が消えたことになる。跡地がエクシブ箱根離宮になっており、泊まろうと思ったことはないが、勤務先が会員だったりしたこともあり、残念な気持ちが身にしみた。  時間の経過や商業主義は自然と文化を破壊する方向にベクトルが向いてしまう。エコプラグマティズムや文化開発などのソーシャルデザインを唱えるひとがいても、そのベクトルは強固なものであろう。ゆえに抗う必要があり、ナショナルトラスト運動は強力なツールである。

自然を愛す エドワード・O・ウィルソン著、岸由二訳『創造 生物多様性を守るためのアピール』(二〇一〇・四 紀伊國屋書店)

  本書はパストールというアメリカ南部バプティスト学派の牧師を説得・説明するような形式をとり論が展開する。パストールは大衆、ひいては読者の代名詞である。日本では意識しないがアメリカではキリスト教と進化論の対立は残っているようだ。ウィルソンは昆虫学者なので進化論の立場を取る。一方で多くの大衆はキリスト教の立場をとる。パストールは信仰により生物に関して創造説つまりインテリジェントデザインが根底にあり、人間中心主義につながる。そして一部は(多くは?)人間特別主義をとるとしている。国力とCO2排出量の面で環境問題に対してイニシアティブをとるべきアメリカが、左記のような対立構造があるという現状は言われてみれば納得だが本書を読んで改めて実感した。本書はそうした対立構造を煽るものではなく、論理的に説得・説明する形式をとり連携しようとする意図がある。  第一部は「創造されしいのちある自然」で生物多様性の大切さと、いのちある自然とは何かを説いている。ウィルソンの専門分野である蟻を始め、菌類など目に見えないものが生態系を下支えしていることや、貿易により発展した初期的なグローバリゼーションにおいてしばしば蟻による甚大な被害の記録があったが、その真相の解明をし読者をミクロの世界にいざなう。そして、体重が十キロを超す動物群であるメガファウナのほとんどが狩猟により絶滅させられたということや、その他にも人間が持ち込んだネズミによって滅ぼされた鳥類のエピソードを紹介し、読者はその数限りない絶滅を知る。生物に生存権があるなら人間は大きな権利侵害を犯しており、その時点で問題なのだが、本書はパストールを説得することが目的なので、生態系の維持が人類の生き延びる上で重要であることや、創薬や災害からの防衛など最終的に人類に資するよう結論づけるエコプラグマティズム的な言説でまとめている。  しかし、ウィルソンが求めるものはエコプラグマティズムではない。かといって、ラディカルなディープエコロジーを要求するものでもない。「人間心理に作用する誘引力のようなもの」であるバイオフィリアを主張している。生物の世界を探究したり、生物に感情をみとめたり、生物を神話や宗教に取り組むことがバイオフィリアであるとしている。日本の神話にみられる自然崇拝や、民俗行事などはバイオフィリアであるし、文学においても日本はバイオフィリアであった

裏の裏は裏 鈴木ちはね歌集『予言』を読む

 最近の歌集はフラットなものと、詩的なものと幅がかなりある。つぶさに分析が必要だが、ニューウェーブのときよりも顕著だと思われる。本歌集はどちらかというと前者の傾向がある。そして、一般論としてフラットといわれるが、どのような文学的な意図があるのかを示唆してくれる一冊である。   堤防を上りつめたらでかい川が予言のように広がっていた   色黒で坊主あたまで眼鏡だとほぼ確実にガンジーになる  フラットな傾向があると先に述べたが、歌全体をみると堤防を上った後にひろがる川が予言のようにみえるという飛躍は詩的である。しかし、〈でかい〉という俗な言い回しが詩的に読まれるのを拒むかのようなはたらきをしている。次の歌も容姿だけで、劔の教義などを唱えたガンジーを登場させるところに転換がある。この歌は〈ほぼ確実に〉が俗な言い回しになっている。ガンジーがキャラクターとして消費されていることに対するアイロニーが込められている歌なのだが、迎えて読むと容姿で揶揄されることに対する批判も含まれているのかもしれない。しかし、容姿で揶揄されるところまでで止まってしまうと歌として不味くなる危険性も孕んでいる。   明けがたのユニットバスの浴槽に立って背中を死ぬほど洗った   西友が二十四時間営業でほんとによかった 西友は神  詩的飛躍がある歌もあれば抑えられている歌もある。鈴木は意識的に詩と俗をコントロールできるのだ。〈背中を死ぬほど〉が歌をフラットにしているのだが、それでどこまでいけるかという歌である。死ぬほどという比喩から死が軽くなっているということを言いたいのだろうか。次の歌も西友は神という中高生が言いそうな言い回しから、お客様は神様ですという顧客至上主義への皮肉が込められている。   超うまいスキーの動画をずっと観てそのあと玉音放送を聴いた  染野太朗は栞文で良い悪いではなくそのような現実があると述べている。しかし、戦争の記憶が風化していく現実はどちらかというと悪い。現実をそのまま歌として提示することに対して、ニュートラルに評価すると、戦争の記憶が風化していくことに対しての諦めがあるように感じてしまう。フラットに逆説的に問題提起するという手法は諸刃の剣である。多用することで読者の感覚が飽和したり、読者との波長が合わなかったり、連作の力学が予期せぬ方向ではたらいたりとカオスな要因があり意図が伝わら

猫と添い寝をしたい歌

  猫の緒にかかりし御簾のはざまよりほの見し人をねうとこそ思へ 源頼政「為忠家後度百首」  久保田淳『「うたのことば」に耳をすます』によると、結句のねうが寝むと猫の鳴き声の擬音語ねうと掛かっており、猫の縁語でもあるという。『源氏物語』で柏木が女三宮の猫を愛で思いを馳せるという下敷きも解説されており、簾の奥にいる美しい人といるかもしれない猫のほのぼとのして華憐な感じが伝わってくる。  猫画像や野良猫に癒やされる現代人筆者としては、美しい人と共寝したいというのは建前で 頼政は猫と共寝したいという迷鑑賞をしたい。その強い猫への愛は武士としての照れがあり、美しい人を隠れ蓑にしたような気がする。そう信じたい、ツイッターで流れる猫のかわいい画像や動画を多くの人が愛でるように、引用歌で美しい人に擬態した猫を密かに愛でるそんな歌であったら癒やされる。

習作集一・六 オクラカレー・らせん 十八首

   オクラカレー みな死んだ地上の蝉は鉄板のアスファルトから命がかわく プルートに死はなく地球に死はあって死の星でユーチューバーしゃべる ゴキブリはフナムシひとの波は波プラットホームで目をつぶりみる 海のない埼玉県で目を閉じて海の幻想砂漠の幻想 オクラ浮くインドカレーにナンひたす朴浴のような手の動きして インド人もバテる暑さの日本に辛さフツーのカレー食みおり 太陽を恋うもの死にきアポロンと隣の畑の高き向日葵 炎天のアスファルトにも蟻はいて蝉を土へと運びつづける   らせん ゼンマイのような音して蝉が落つ秋虫がなく螺旋なすなり ごんごんとガラスに頭を打ちつける蝉はこの世に慣れずに死んだ あわれな蝉よ今度は冬に来よ銀色をなす冬の陽がある ひぇ蝉!と夜道で跳ねる花火なき二〇二〇年夏の絶叫 最寄り駅とわが家のあいだに落とし物ぼんやり光るわが足跡を 巨大なるドリルでがりがり進むのだ月より大きいグレンラガンは 月もまたらせんをゆっくり描きつつ進歩史観を示唆してきたか たったひとつ隕石落ちれば滅ぶ星いっさいは些事明日は仕事だ 朝顔はパラボラアンテナ少年のまなこに夏を焼きつけている バーバーのサインポールが上に上に上りつづけて衛星になる

習作集一・五 ひつじの乗り物 十二首

  ひつじの乗り物 仕事場のUSBの奥の奥「閻魔帳」というファイルがねむる 太りたる鼠(の死体)のかたちしたマウスを今日も強く叩きぬ 即席麺カツ丼の味が残りたるわが血が誰かに輸血さるらん かつて牛だったおもかげトラックはやさしい顔して黒煙を吐く 半分がマスクに覆われ群衆が来訪神のように見えくる 水槽のネオンテトラの食べ方を十通り思いめぐらせていた 熱湯が紅茶に染まりゆくところ「考える人」の顔でながめる ゆりかごと介護ベッドに柵はあり内と外とを分かちておりぬ 〈七曲り通り〉を歩くこのうねり「ゆとり教育」「リーマンショック」 山林はひとを呑みこむものである踏み込みすぎたから家朽ちる 〈プロパティ〉ひらけばわが名が書かれあるエクセルファイルが古巣で泣いた 危ないから揺れないひつじの乗り物が地面に半分埋まっておりぬ

習作集一・四 川の流れ 七首

  川の流れ 鼻たれのわれへさしだす千本の手をもつ楓は別れを告げて 青紫蘇はばくだん種をまきちらし街全体を香らせてみよ 郵便のスーパーカブの排気ガス煙草のかおりのようで呑みおり 新婚の夫婦はトートバッグからなにゆえいつも葱が出ている 食べかすが主食の鳩を靴で追う日本がだめなところは鳩だ ひとりでに便座のあがり自動式トイレはホスピタリティみせくる トイレより賢いだろうか目をつぶる川の流れが聴こえてくるよ

習作集一・三 余暇の福音 十八首

  余暇の福音 格差社会、少子化問題ならびたる社会福祉の書架をめぐりぬ 雨の日の図書館に本を重ね持ついつまで読むことくりかえすのか 姿のまま食ういさぎよさ天丼の獅子唐辛子はきゅうきゅう鳴くよ 二・五個のトマトで作りしジュース飲み〇・五個の行方を思う 傘もたぬはイギリス流と言いながら極彩色の雑踏走る ビニールの傘はライトにひかりおりクラゲに似れば海に放るか 梅雨の夜に本湿りゆく芥川を美男と言いし君を思い出づ 白黒の文豪たちの顔ならぶスマートフォンの電池きれそう 水以外いらぬと棘をもつアロエ花開かずにいつまでひとり 紫陽花のむらむら増える雨の夜にむずかゆくありわが体内も 自らのカルテにこつこつ記録するわが血圧のゆるき上昇 わたくしの日記のなかで黙々と本読む男が日記書きおり 濃厚な霧のようなり中華屋の肉の脂が揮発している 目の前のもちもちの革をまといいる餃子は合成獣の顔せり 体内に獣のあぶらを含みもち五百円払い出る中華屋を 直角に肘を曲げつつ曲池なるツボを押しおり水面乱せり まばゆきは新宿の街ケインズは「余暇の福音」信じて死にき ケインズもミルも否定する本を返却ポストの闇へと放る

習作集一・二 ほのお・外濠沿い 各五首

  ほのお みどりごの大きさの鮫のぬいぐるみ買わんと思う牙やわらかき 怪気炎あげる背広の男いてこけしのわれを燃やそうとする しゃべくりで猛き男を宥めいるわが背なに燃える怪しきほのお たおやめの兎が狸をもてあそびごうごうぱちぱち狸は死んだ 冬の月とりわけ親し着ぶくれのわがししむらを清く凍らせ   外濠沿い コンクリの壁にびっしりビラありき法政大学五十五年館 明大より少し高いといわれける法政の塔はもう見つからず 外濠はおじいさんなれど学生のバカが泳いで春が来るなり 高校生のわれは確かに見たはずだバリケードありし学生会館 鉄門は太くか黒く閉ざされておおわが母校は都会めきゆく

習作集一・一 魚編 十二首

  魚編 積み上がる資料の束は循環し回帰しわれのいさらい拭わん 爪と指のあいだに銀の針を刺すそんな皮肉をあたためており つり革と乗客はそれぞれに揺る労働は喜劇だと気づいたか 社会的距離を伸ばして山奥に消えた男は民俗めいて からっぽの電車は走る出生と死亡のあいだの人生の価値 狭山茶の味のかなめは火入れらし夕陽は街を炎につつむ 魚偏にうめつくされた湯呑あわれ熱き茶で口をぱくぱくしおり 「寿司店の美味しい日本茶!」間違いはないけど〈カートに入れる〉は押さず 菓子盆の亀屋の最中に投げかける鳶の眼光鷹の爪われ 朝を呼ぶスーパーカブは止まったり走りだしたりまれびとのよう 〈放置ゲー〉は勝手に強くなるゲームわが庭のアロエ棘のかいぶつ クラスターは議事堂内のミドリムシ緑のかたまりぼとんと落ちる

空穂のメタモルフォーゼ 一首鑑賞

  枯れすすき木菟《みみづく》となりまろき目の黒き目向けてわれを見すゑゐる 窪田空穂『卓上の灯』  空穂は境涯詠、家族詠、そして些事を掬いとった生活詠という評判がある。そういう側面もあり、老いの艶は現代に通じるものがある。臼井和恵著『最終の息のする時まで 窪田空穂、食育と老い方モデル』(二〇二〇・三/河出書房新社)では空穂の人生をたどりながら出会いと別れ、風土、社会状況について触れながら人間探求していったことについて考察している。筆者も臼井の本を読み、「空穂の読み方 臼井和恵著『最終の息のする時まで 窪田空穂、食育と老い方モデル』を読む」(http://fuyuubutu.blogspot.com/2020/10/blog-post_19.html?m=1)で短歌が文学論だけに終始せずに生活科学まで及ぶ可能性について示唆した。空穂の歌は人間探求のさきに、実践知を内包しはじめて有用の歌にもなっていたのだ。  しかし、引用歌は枯れすすきが木菟にメタモルフォーゼし、丸く黒く印象的な目をもって、まるで射抜くようにわれを見据えているのである。先に述べた歌の方向性とは別に、精神的にある暗さを暗示する黒い目や、木菟という知のモチーフがあらわれて、芸術的な意図を持っている。写実でもなく、ロマン主義でもないこの歌はモダニズムを思わせる。他の歌人、他ジャンルではモダニズムが定着したなかで、空穂も接収していったことがこの歌から示唆される。その姿勢もまた老いの艶といえそうである。一般的に歳を重ねると保守的になるといわれるなかで、不易流行を血肉にするのが空穂なのである。

金運上昇の聖地という夢

 夢の中で私は車にゆられていた。この坂を降りたらもうすぐ自宅だ。運転している同僚にこの辺で……と声をかけて車を降りる。車は交差点でUターンして元きた道を走り去っていく。田舎とはいえ交差点でUターンするのってありなのかなと思いつつ、まだ時間も早いので散歩することにした。  しばらく歩くと、民家のあいだの玄関前アプローチだと思っていた細い道は、ただの路地であることに気づいた。もし他所様の庭とかに出てしまったらどうしようという不安も覚えつつ進んでいくと、お寺らしきところに出た。建物はなく、石畳になっており、賽銭箱とその奥に龍の銅像がある。夢だからか寺だと思いこんでいた。賽銭箱の隣に小さい手書きの字で、金運にご利益があること、少なくとも二十五パーセントほどの増収が見込めることが書かれている。具体的な数値を挙げているのは頼もしいなと思いつつ、賽銭箱のほうに目を移すと漆の箱がある。箱を開けると湯呑に抹茶ラテが並々と満たされ並んでいた。ここにも北海道産の小豆と地元の狭山茶、境内から湧き出ている水でつくった旨が書かれている。  抹茶ラテに感心しているときに目覚めてしまった。今年は貯金が増えるのだろうか。夢とはいえ存在した自宅の近くの金運上昇の聖地を探してみるのもありだ。

一首鑑賞初め 「かりん」(二〇二一・一)若月集を読む

  留学生のせいにされたる敗退を冷たい雨のなか受け止める 貝澤駿一  マラソンの先頭集団は外国人選手が固めているような映像の記憶がある。学生の大会だと留学生ということになる。連作の中で日本人が食らいつくも惜しくも振り切られてしまったことがわかる。生物学的な体格差などアドバンテージはあるのかもしれないが、それだけなのか、そのように引用歌の主体は思っている。そして、その冷たい雨は、マラソンのためにスカウトされた青年の立場である留学生とは何かという問題にも及ぶ。   老いてひとに警備のしごと残るとふ靴音おもき夜の防人 鈴木加成太  工事現場、公共施設、イベントなどにも高齢の警備員が目立つ。年齢的に無理が効かなくなってきたときに気温や体内時間的に無理がある就労をしている社会がある。社会派になりがちな主題を下句で韻文にしているという鈴木の歌に対する態度が垣間見える歌である。古歌にみられる防人も各地から招集された名もなき民衆である。防人は朝廷により、警備は社会から迫られて立ち続ける。   どこまでもひらたくなりたい秋がきて山椒魚の木彫りを買ひぬ 上條素山  眉を中心に作品を発表していたが、前月号に続き山椒魚をテーマに連作を組んでいる。眉もそうだが、どこか悠々としていて、中心から少しずれているものに心寄せしている。山椒魚の生息地は限定されていることから、ひらたくなりたいというのは脱力感だけではなく、どこか隠遁願望もありそうだ。それを象徴するように木彫りの山椒魚を買うのだ。   活き作りの鯛のあたまのぴくぴくを何度も撮ってあたたかい指 郡司和斗  活き造りを撮る残忍さを詠っていると評したいところだが、郡司はもう少し踏み込んでいる。鯛の死にかけているところのリアリティのなさを詠っている。それは盛り付けられて、活き造りという名のもとに現れた鯛に対しても、それを撮影するわれに対しても向けられている視線である。普段ひとは死を身近に感じずに生活しているが、それとは別に引用歌を読むと、死のリアリティのなさが変容してきていると思わされる。

本の森 所沢にできた図書喫茶カンタカを訪ねる

 所沢駅から10分ほど歩くと「図書喫茶カンタカ」はある。木材の匂いと壁一面に設置された本棚と書籍が図書喫茶たる由縁だ。コンセントもあり、ソファにクッションがあり原稿執筆に集中できそうな環境だ。プレリリースのときから気になっていたので、待ちに待った訪問だ。  昼には早くモーニングには遅い微妙な時間帯なので、「所沢の森ブレンド」を注文する。お昼時になったらセットでまた違うコーヒーを注文すればよい。「所沢の森ブレンド」は口当たりがよくブラックでいける。  見回すと所沢市・東村山市の歴史、環境分野の書籍、都市計画関係の本が多めである。エンデの『モモ』など児童文学の名作や、面白そうな絵本もあり、店主の趣味がうかがい知ることができる。これだけ書籍があるとカンタカで何か文芸を創作するときに、題材になりそうだ。あくまで個人の希望なのだが、詩歌はまだ少ないようで、今後増えていくことに期待する。そして、多くの人が詩歌に親しむ場所になると嬉しい。また、コロナ禍で厳しいが、今後キュレーション的な活動があると盛り上がるだろう。  KADOKAWAの「ところざわサクラタウン」のオープン、東所沢駅が本棚のような外装に改装されたことに続き、所沢がどんどん文学都市になっていくところをみると楽しい。  おすすめなのでぜひ一度所沢観光に来てほしい。そして、カンタカで一息ついてはいかがだろう。 〒189-0001 東京都東村山市秋津町3丁目30−6 営業時間9:00-20:00