山川草木・社会の二重世界の中で生きた歌人 窪田章一郎著『短歌シリーズ人と作品5 窪田空穂』(昭和五十五・八/桜楓社)

  本書は作家研究編と秀歌鑑賞編の二本立てになっている。作歌研究編は作歌前・明星投稿時の初期から、歌集を追って空穂の歌の変遷や交友関係、時代背景などホリスティックに論考している。


  情熱を超えたる真《しん》の大愛はその子を思ふ父のみのもの

  天地《あまつち》の創造主《つくりぬし》をば独ある男神《をがみ》と信じぬ遠き代《よ》の人


 空穂の人格形成には父の生き方・存在感と、母から受けた愛が大きな位置を占めている。章一郎は空穂の父親像は若いときの体験が底にあるが、全作品にも通底しているモチーフでもあるとしている。父という存在は儒教的な孝行ではなく、抵抗や超克という葛藤のもと人生を切り拓くための指針でもあったのだ。また信濃の風土は真っ白な天地が緑に包まれるさま、昼夜の差が際立っていること、霜、露が激しいものである。この自然美と厳しさが同居している風土によりロマンチストであると同時にレアリストとして徹底していく性格が醸成されたとしている。この性格は人に対しても及んでおり、「自己および他人を理性的に観察する透徹・深刻な性格」であると章一郎は述べている。当時の信濃は都会人が想像するよりもよっぽど国文学者や発句作歌がおり文化的な土壌があったことは空穂が随筆で語っているが、信濃は偶然にも文学者を形成するのに適した風土であったといえる。

 同郷の太田水穂との交友ののち「文庫」、「明星」に参加するが、空穂は白秋や勇のように浪漫主義から耽美派の路線をとらずに、「明星」を後にする。章一郎は「〈自身を静かな境遇に見出したいといふ一事が中心の願ひ〉であり、その成就を、容易なことと思えない自己の課題としていた空穂には、新詩社の親しい社友たちが余りにも対社会的意識を持っていて、傷つけられることが多かった」と述べており、また、明星的恋愛歌と生活実感に距離があることも違和感があったという文学上のすれ違いがあったようだ。他にもちょうど鉄幹が女性問題で糾弾される怪文書が出回った文壇照魔鏡事件もあった時期でもあり様々な要因があり区切りをつけるのにちょうどよかったのだろう。「明星」に参加していたのは実に一年足らずであった。

 第一歌集『まひる野』ののち何冊か歌集を出し、『空穂歌集』を上梓した。歌人としての活動には区切りをつけ小説の執筆に移行することになる。また、この時期に伊勢物語や源氏物語などの古典作品に新文学の立場からの評論を書いたり、『新派和歌評釈』『短歌作法』などの単行本の上梓など活発な活動がみられた。文壇では島崎藤村『破戒』が刊行され、田山花袋が「文章世界」を創刊し、自然主義文学が隆盛の時代がはじまる。空穂も新進気鋭の小説家として「文章世界」に作品を発表するのである。筆者は浪漫主義の反動として自然主義が台頭してきたと捉えていた。浪漫だけでは捉えられない時代感であったり、生活実感があり写実主義から自然主義に成熟していったという文脈はあるであろう。章一郎は自我の開放・確立が自然主義にそのまま引き継がれ発展していったと捉えており、空穂の「明星」から『まひる野』を経て「文章世界」に到った連続性を裏付けしている。独歩・藤村・花袋も空穂と同じように浪漫主義から自然主義に移行しており、当時の時代感覚からすると奇異なことではなかったのかもしれない。また本書で納得したことで『鳥声集』の題名の明るさについてがある。本歌集は逆縁の悲しみの満ちた挽歌集ともいえるものだ。しかし、鳥の声という明るさはどうなのだろうという疑問を漠然と持っていた。この答えも本書にはあった。悲嘆ののちに山川草木のなかに人間がいるという、人間第一主義ではなく生命愛に満ちた感情が湧いてきたというのである。

 第二芸術論が提起されたときに空穂は短歌を擁護しつつも、社会性を持つ必要があるという論調に対しては定型の制約があり無理な注文であると述べているようだ。しかし、「人事詠は社会生活の反芻であり、現実の深化である」、「さうした生活を送つているわれわれを纏っている自然は限りなき拡がりを持つてゐる」といっており、生活を起点とした社会性を主張することで反論としているようだ。第二芸術論に対する反論においては、新しい短歌は自然詠より人事詠を選ぶべきと主張するのだが、自然詠の美にも文字を割いており、わかりやすく柔らかな物言いの中に、反論を潜ませている。前衛短歌だけが第二芸術論に対する運動であるような言説を目にすることが多いがそれだけではないことがわかる。前衛短歌運動はインパクトがあるが、老大家の反論はどのように展開したかまでは本書ではないのが残念である。

 本書は空穂の文献だけではなく、具体的な言動やその他の歌人の発言も踏まえられて研究されている。したがって、本文では前半から中盤にかけて筆者が注目した内容を中心に紹介したが、空穂の思想や生き方がどのように作品に結実したかが詳細に書かれており、ブログでは語りきれないほど書きたいことや、考えさせられることがある。また、空穂の作品を読むと読むほど作品と思想・人生が密接に関わる歌人はおらず、したがって評伝も論作、発言に裏付けされており立体的なものである。

 歌人として空穂作家論を展開しているが、時折みせる息子としての実感や、家族ではないと知りえないニュアンスが見え隠れするのは本書の際立った特徴である。空穂は長寿であることが知られているが自宅で多くの医療資源を受けずに長い健康寿命のもと天寿と全うしたというのも、家族ではないと語りえないことである。歌人としてはもちろんだが、すぐれた生活者としても注目すべきである。