無意識なフィルター (山川草木・社会の二重世界の中で生きた歌人 窪田章一郎著『短歌シリーズ人と作品5 窪田空穂』(昭和五十五・八/桜楓社))加筆

 「山川草木・社会の二重世界の中で生きた歌人 窪田章一郎著『短歌シリーズ人と作品5 窪田空穂』(昭和五十五・八/桜楓社) 」(二〇二一・一/短歌ブログ浮遊物、http://fuyuubutu.blogspot.com/2021/01/blog-post_19.html?m=1)の加筆に加筆したい。窪田空穂が文学御前会議のテーブルスピーチで、「五十年前の歌集と小説とを読み返すと、小説は見るにたえぬものも少なくないが、単かには今日も新鮮な感情がある」と述べたと紹介している。多分野のジャンルのなか、それも小説が力をもつ場で一石を投じる発言だった。しかし、宇野浩二「文学御前会議」では、空穂が何かぼそぼそといったで済まされてしまった。そのことについて、本書では窪田章一郎が補足して内容を明らかにしている。村崎凡人(「国文学研究」、一九六二・一〇)は章一郎の仕事を評価しつつ、宇野は斎藤茂吉に傾倒していたため観点を異にしていたようだとソフトに述べている。当時の時代感を把握しかねるが、宇野の文章において空穂の発言の内容が不明確にされてしまい、〈ぼそぼそ〉で済まされてしまったことはあまり残念である。アララギが有力な歌壇において無意識ながら力学がはたらいて、言説がモノクロになってしまった印象を受ける。空穂が新文学の立場で古典に光を当てたように、私たちも令和短歌の視点から近代を見つめると、先行研究にみられない発見があるはずだ。