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貴族の心、科学者の心 坂井修一の空穂受容

 「文芸とは貴族の心を持ちて、平民の道を行ふものなりと。」という有名な空穂の言葉は、生活のなかで時間を割いて文芸に対峙する現代の文士の共感するところであろう。一方で、「貴族の心を持ちて」というのが突き詰めて考えると難しい。坂井修一は『世界と同じ色の憂愁』(二〇〇九・十一/青磁社)の「窪田空穂の蘇生」で空穂の文芸を「つねに円をなし球をなしながらふくらみ深まる全人格的なもの」と大きくつかみながら、〈四月七日午後の日広くまぶしかりゆれゆく如しゆれ来る如し 窪田空穂『清明の節』〉を「頑固な意地っ張りの心情も滲ませているように見える」と読んでいる。続けて空穂を「真摯な求道者でありながら、おおいに世俗的でもある自身ををそのまま受容し」執着する姿勢を保っていたと述べている。坂井のいう全人格的というのは道徳的というわけではなく、世俗や我執を諾いつつも、ストイックさも兼ね備えるものなのである。   わが罪は造物主《つくりぬし》こそ負ふべけれ饑ゑたるからにものも食《くら》ひき 窪田空穂『鳥声集』   科学者も科学も人をほろぼさぬ十九世紀をわが嘲笑す 坂井修一『ラビュリントスの日々』   ぼろぼろの人工衛星《サテライト》あまためぐる星 故郷とよべばため息のいづ 『縄文の森、弥生の花』   人斬るは国のためぞとたからかに澄んだ声あり光るきんつば 『古酒騒乱』  もう少し具体的に読んでいくと、坂井は空穂の性質を本質は近代精神・自己の観察、自省と動揺、破綻を繰り返しながら、静かで強い「闘志」と優しい声調で歌うものと考察している。一首目は、空穂は二十七歳のときに牛込柳町教会で植村正久の説教を聴き洗礼を受けたが、少年職工の死を目の当たりにしたり、次女なつを亡くしたりと人生の苦難が空穂を襲うなかで、信仰心も観察から破綻のプロセスを繰り返していたことが窺い知れる。二首目で坂井は十九世紀の科学について、空穂と同じように観察・破綻を歌う。嘲笑という突き放した表現で科学者でありながら、科学を客観的にみる態度を保っている。近代精神の動揺と同じように、坂井は現代文明の合理主義や、進歩史観の動揺と破綻を予知しあざ笑っている。三首目は、人工衛星やスペースデブリなど実際の地球はCGで描かれるよりも汚く二十一世紀の破綻を詠っている。〈故郷〉と地球を土着的に表現することで、ため息の深さを物語っている。四首目について、きん

雪 朱里著『書体が生まれる ベントンと三省堂がひらいた文字デザイン』を読む

 活版印刷の書物を手にしたときに、印字の凹みや微妙なずれ、ときに活版印刷ならはの文字がひっくり返ってしまうような誤植を味わいと捉える。書物が経てきた時間や当時の時代感が凝縮されているような心地になるのも一因だし、活版印刷ならではの手作り感によりハンドメイドの一品ものを手にしてたような気持にもなる。普段の生活はほぼデジタル印刷の書物しか触れないが文芸の本だと出合うことが多く、奥付の現存しない版元をみてまた気分を良くする。本書は雪が活版印刷史について、社史や業界紙、自費出版的な個人史などを閲しながら裏付けており、恐るべき仕事でもってして書かれている。日本の活版印刷の発展には三省堂が大きく寄与していたようだ。そこに登場する男たちの熱い息づかいも日記や人物評から感じることができる。  ベントンとはアメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)のエンジニアであるリン・ボイド・ベントン氏で、活版の母型をつくるベントン彫刻機をATFのために開発した人である。日本では母型は職人が手彫りしていた。そこで、三省堂の亀井寅雄が熱心にベントンを説得し非売品であるベントン彫刻機買い入れたのである。そこから関東大震災や第二次世界大戦があり日本で数少ないベントン彫刻機や、三省堂をはじめその他の印刷会社も存亡の危機に瀕しながら活版印刷は発展を遂げていくのである。  英語と日本語の違いや、読みやすさとデザイン性などベントン彫刻機が日本に馴染むまで、操作以上に検討事項があった。その一つが書体である。篆書体、明朝体などなど数ある書体のなかから、今もなじみがある明朝体が選ばれ、母型の製造可能性と筆勢(あるいはデザイン性)を天秤にかけながら太さや規格の統一がなされていく。印刷の話ではあるが日本の文明史でもあるのだ。先述したが雪の粘り強く蒐集し的確に引用した資料があるため立体的に浮かび上がるものがあり、大きな仕事だと思った。  今日仕事で多くの人がオフィスソフトを利用し、必ず游明朝かMS明朝どちらかを目にするだろう。いつもの風景でいつもの仕事、業務書類を無心に作成していく無味乾燥な毎日。だが、本書を読むと画面上に次々に出現する明朝体の活字も元を辿ると、活版印刷に到るまで何度も検討された書体の名残があることに気づくだろう。その瞬間にふっと大正に日本の活字文化を発展させようと血潮をたぎらせた男たちが頭をよぎり、少し

L・ヴィトゲンシュタイン著『青色本』を読む

  ヴィトゲンシュタインの講義録である本書は哲学の実践マニュアルともいうべきものだ。論理展開に時折迂遠があり、哲学書特有の難解さは感じるが、言葉自体は平明であり読書において助かる。  前半は言葉の意味について書かれている。言葉の意味と は本書によると、言葉を用いた活動・実践でどのように使用されるかが言葉の意味であるという。また、活動・実践は言語規則や、本書では文法とよばれる文脈において、言語ゲームといわれている。例えば〈リンゴ5つ〉というメモを八百屋に渡せばリンゴを5つ購入したいという意思表示のはたらきをするということである。この記号的操作が言語ゲームであり、本書ではチェスの駒の動かし方に準えている。これは様々な形態で日常生活に潜んでいる。いまタイピングしているキーボードのバックスペースもそれである。  意味についての記述は現代短歌の歌評、鑑賞においてもみとめられる。Aという歌を評したいときに、Aの歌意を述べるのだけなのは不十分である。本書風にいうと赤い布切れをみて赤いと表現するのに近い。Aという歌についてどのような読みが成立しうるのか、Aという歌が読み手にどのような情動を喚起させるのか、社会におけるAという意思表明はどのような位置づけなのか……などAの機能面に着目するのが本書風の読みであろう。一方で文芸特有の良し悪しについては明文化されていないし、明確にすることは難しい概念であるため言語ゲーム的な評は難しい。それよりは言語哲学的ではないが、作品Aの言語ゲーム的な印象批評を収集し、質的・量的に分析したほうがよさそうだ。  その他にも本書は独我論や哲学的言語と日常的言語についてなど、言語哲学的に示唆に富んだ記述が数多くみられる。どれもがテーゼではなく、プロットなのである。解説が「『青色本』の使い方」という名前で章立てられているのであるが、ヴィトゲンシュタインの意図を組んだ命名だ。筆者は哲学については門外漢であるので、本書が哲学的にどのような位置づけになるのかは理解していない。しかし、文芸の実践で、日常生活で哲学的困惑に陥ったときに本書(ツール)を想起するに違いない。

山木礼子歌集『太陽の横』を読む

  「あとがきに代えて」によるとIは「短歌研究」連載作品、II は新人賞受賞作品とこれまでの作品が収録されているとある。Iは育児の作品を中心に編まれており、短い期間で集中的につくられた作品なので臨場感がある。また後述するがケアをする主体は様々な葛藤に直面し、批評、抒情のなかに問題提起がある。IIは新人賞作品および作品集といった感じである。連載作品から導入というのが作品に入り込みやすい。   もう来ないからと小声で告げながら診察室を逃げるやうに去る   あかるいが助けてくれぬ常夜灯 早く寝てくれ寝てください  小児科受診のときに待たされた挙げ句に、診察も心ない言葉をかけられたのだろう。とはいえ相手は医者で、もしかすると緊急時にお世話になるかもしれない。医者だけでなく母は多くの危機に晒されている。危機は生理的なものだけではなく、社会的なものもある。分かりやすくいうと男性的父権的なものだが、いずれにせよヴァルネラブルな存在なのだ。次の歌のような切実感はいままであまり詠われてきてこなかったような気がする。子育ての苦労を率直に表現することが憚られてきた社会的な暗黙の抑圧があったということだろう。   キッチンへ近づかないで うつくしいものの怖さはもう教へたよ   泣き顔がどうも舅に似てきたな ともあれ深く抱きしめてやる  子育て中の発見・発想の歌は面白い。幼いときに大人が知るようなことを教えるちぐはぐ感と、それとわからずキッチンに向かう子の無邪気さが対照的だ。カトラリーや野菜類など造形美を秘めつつも、それらは幼い子を歓迎しない怖い魔女のような存在なのだ。また、二首目のようにすこし覚めたところがあるところも子育ての歌を甘くしていない。舅を想像するところに微量の愛憎がある。この微量さも絶妙だと思う。   花籠に花あふれゐる病室で褒められてゐるわたしの乳首   春の雨 尿《ゆまり》するとき抱きあぐるスカートは花束となるまで   おやおや わたしのやうな人間に両手を伸べてすがるといふの   後ろ手に髪をくくれり夜の更けを起きて詩を書くならず者にて  われを詠んだ歌を引用した。一、二首目は乳首や尿など身体のなかでも動物的な部分が、花籠や花束と取り合わされている。一首目のほうが景色と内容の組み合わせがユーモラスなのだが、花の溢れる空間でこそ褒められるものでもあるのだろう。二首目は春の雨と