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5月, 2021の投稿を表示しています

若山牧水著『みなかみ紀行』を読む

  若山牧水の楽しげな紀行文。草津や四万温泉など温泉旅行が多い。草津は当時から湯揉みをしていたようだ。湯揉みをして熱湯近い湯の温度を下げて、それに浸かることを繰り返すようだが、それでも温度が高く皮膚が軽い火傷で剥けるらしい。気持ちよく湯治しているというから、かなり本気(ガチ)の湯治様式である。幸い牧水はそれはせず、眺めているだけだったが、当時の湯治場(洒落ではない)の熱狂や、代替医療感がよく出ている。酒気帯びで温泉に入ったら危なそうだなと思いながら読んでいた。十代後半から二十歳程度の結社の弟子を連れて、弾丸ツアーをしているので宿もたまに外れを引くようで紀行文としてリアルだ。それにしても宿の不名誉が半永久的に残ってしまっているので、主人にも御愁傷様としか言いようがない。当時だって新聞に掲載されたはずだ。  歌人の写生文は面白いというのが持論だ。   三島の宿を出はずれると直ぐ旧道の登りになるのだが、いつの間に改修されたのか、名物の石だたみ道はすっかり石を掘り出して普通の砂利敷道に変っていた。雲助やごまの蠅や関所ぬけやまたは種々のかたき打だの武勇伝などと聯想されがちであったこの名高い関所道も終に旧態を改めねばならなくなったのかと思いながら、長い長い松並木の蔭を登る。山にかかった頃から雲は晴れて、うしろに富士が冴えて来た。   岩魚が囲炉裡に立ててあったので、それで燗をぐっと熱くして一杯二杯と飲みはじめた。  現代からすると昔のさらに昔に心寄せする牧水だ。歴史に思いを馳せながら厚みをもたせ、松並木の描写で文章に彩りを加えている。が、そんな風流心のある旅のなか、夕食だけではなく朝食にも自然と酒が並んでいるようで、酒豪っぷりは無自覚に描かれている。飛騨高山は同級生との再開や、詩歌を嗜む芸者のいる庭の美しい料理屋に行くなどさながら竜宮城のような時間を過ごしており、牧水の人脈ゆえのことだが竜宮城は旅のなかにあるのかもしれないと思わされる。「野のなかの滝」では山中で滝や孟宗竹が見えるこじゃれた宿屋に滞在し、川に足を浸し、蜻蛉と戯れたり、川に生じた窪みを面白がったりと自然を満喫している。ビールを飲みながら部屋でくつろぎ、夜の散歩もしている。病気によくないがビールをもう一杯注文したと述べており、病気なのかよと読者もツッコミをいれたくなること必至である。「伊豆紀行」でも結構飲んでいる。冒

サイゼリヤについて

 三十路になってサイゼリヤがまた好きになっている。駅前に一軒あったがガヤガヤしており、敬遠していたが少し離れたところにもう一軒できたのがきっかけだ。相変わらず混んでいるが、面積があるのでガヤガヤ感が緩和されている。  サイゼリヤは個人店のイタリアンほど凝っていない。しかし、メニューを読むとイタリアの食文化についての豆知識的なものもある。イタリア人が出てくるテレビでもサイゼリヤは本場の味だと激賞していたので、本場は日本のうどんのごとく大衆的な食べ物なのだろう。個人店のように繊細な味付けというよりは、トマトとチーズとベーコンでうま味を全面に押し出すリピート必至の鉄板食文化なのだ。  とはいえ三十路のサイゼリヤは一筋縄ではいかない。高校生のときのようにミラノ風ドリア一択ではないのだ。何周かメニューに目を通し、自分の食指の動きを察知する。たとえば、ガーデンサラダ、ラム肉の串焼き、ボンゴレビアンコ(期間限定)、ティラミスのセルフコースメニューを設定する。少しシンプルだが、ガーデンサラダが多いためこれでお腹いっぱいになるだろうと推測する。万が一足りなかった場合はどうするか、ティラミスを頼む前に生ハムを挟んで本でも読みがら余韻に浸り、落ち着いたところでデザートにするなど二の手を用意する必要があるのだ。  とにかくサイゼリヤは楽しい。大人サイゼリヤは豪遊できる。ランチで、筆者は下戸なので飲み物はイタリアンコーヒーとエスプレッソを飲むが、サイゼリヤにはワインの他に食前酒と食後酒もある。ローマ人になりきって昼間から酒池肉林に溺れるのもいいだろう。さて、下戸のローマ人は当時の酒池肉林でどう振る舞ったのだろう。おそらく甘味に溺れて成人病になったに違いない。

島内裕子著『響映する日本文学史』(二〇二〇・一〇/左右社)を読む

  本歌取りに代表されるように日本文学はパロディが多い。いや文学自体パロディ、リスペクト、アンチテーゼの積み重ねといっても過言ではない。島内裕子は時代を飛び越えて間テキスト性に触れる響映読みを提唱している。  『古今和歌集』に関しては有名な冒頭の「大和歌は、人の心を種として、」を取り上げ、和歌は天神や地祇を動かし、勇猛な武士も心が鎮まると歌徳を平易に説明している。『三流抄』の一部で和歌で鬼を退ける逸話を紹介するなかで酒呑童子の成立の結びつきを述べている。徳川綱吉は『詩経』の分類であり古今和歌集でも用いられたの六義の分類が由来の六義園を造り、歌徳で天下泰平を維持しようとしたということである。初学者にもやさしい構成で、それぞれのトピックでもう少し掘り下げてほしいと思いつつ、『古今和歌集』から六義園へ展開するのは面白く、垣根を超えた文化という文脈で文学をみることができるのが響映読みなのかもしれない。  その他にも多くの響映読みが示されている。三島由紀夫の『近代能楽集』は「葵上」が本説である。六条御息所がモチーフの六條康子と光源氏がモチーフの若林光の対話を繰り広げて愛と憎しみ、幸福と不幸、人生における真実は何であるかを暴き出す。さながらソクラテスのような『近代能楽集』の対話の連続と、「葵上」で六条御息所と光源氏が対話をしないことについて、もう少し考察すべきではあるが、本書では霊魂の奥深さが幽玄であり、また他者の心の奥を思いやる心も幽玄であると結んでいる。また、森鷗外『舞姫』のエリスの白い顔と、『源氏物語』の夕顔の君の夕顔の花、そして二人の恋の顛末を響映させたり、鷗外『青年』と『源氏物語』の「雨の夜の品定め」に通底する批評小説と呼べる様式を示唆している。  なるほどと思わされるところと、迎えすぎではないかと思える印象が行ったり来たりしつつ、しかし響映読みは読書の醍醐味でもあり共感した。先述したが対話劇にはソクラテスが重なるし、短歌は遺伝子レベルで古典の影響が及んでいると思っている。堅い論文ではなく本書のように縦横無尽に読める文体のほうが苦手意識なく日本文学に触れられるのでいいかもしれない。また、本書で及んでいないところではフロイトやサルトルなどの人文科学から、ミルやマルクスのような社会科学も大いに文学に影響を与えており、響映させる余地があるということである。挙げていくときりが

山花集(「かりん」ニ〇ニ一・五)を読む

  長いコロナ禍のなかで小さな旅も憚られるような社会になったが、歌は日常からもつくられる。いや、日常の繰り返しのなかに訪れる変化こそ歌になるのだろう。また、閉塞感のある社会で楽しみを見つけるのも歌人は上手いのかもしれない。そんなことを考えつつ「山花集」を読んでいきたい。   もう痛くなつてもいいよとさする腰 農の労働ささえたる腰 山本フサ   枝すべて伐り落とさるる夢を見しまどろみに藤の花の匂いす 辻 聡之  山本の歌は腰を体言止めで繰り返し詠み込んでいる。自らの身体に一部でありながら農業をともにしてきた相棒なのだろう。体が資本とはよくいうが、農業は中腰が多くより具体性をもって腰が農の道具にもなる。さて、いまでこそいいものを長く使うという価値観が出てきたが平成は使い捨ての時代であった。グローバルにいわれているサステナブルという価値観よりももっとヒューマンなものが、かつての日本、そしていまの農にもあるのである。そんな身体の歌を考えるときに辻の歌も面白く読める。連作で藤の花を自宅に迎えたことがわかるが、夢で枝が切り落とされてしまうという。藤に対する愛着は失なってしまう恐れが同居したものである。また枯れてしまうのではなく、伐られてしまうというところでも不条理さがある。夢の覚めぎわに藤がわれを起こすように香るのだが、夏目漱石『夢十夜』を下敷きにしているのかもしれない。そう読むと途端に耽美的な雰囲気になる。漱石は百合だったが藤もいいかもしれない。   空き店舗にあれやこれやの雛飾り街ゆくだれもの〈女〉ふりむく 奥山 恵   並ぶ席ふたつをあたため観る映画ひと粒の麦がをとことなるまで 増田啓子  奥山は商店街の空き店舗に街の活性化で雛飾りを据えるところを切り取っている。空き店舗の時点で空洞化が進んできているところに、雛飾りを設置するという苦肉の策に社会的な目線がある。下句は、誰もが心のなかにあるアニマ的な女性性が、雛飾りに目を向けさせるということだろう。雛飾りの華やかさだけでなく、上句の商店街の現状も含めてふりむくのが〈女〉なのである。増田は下句が面白い。一粒の麦が男になるのは映画の内容なのだろうか。それにはどれくらいの年月が必要なのだろうか、水と日光で育つのだろうかといろいろ想像させられる。一方で、男イコール糧なのかとも思わされ、男性とはなにか考えさせられる映画でもありそうだ

新型コロナウイルスに関する福祉制度で思うこと

  アメリカは自由主義国家だから社会保障は日本に比べて低い。そのような認識が根強く持たれているのは日本人にとって幸せなのかもしれない。わかりやすいようにコロナ禍の失業給付についてみてみるとアメリカでは失業保険制度がまず雇用者の失業給付として検討される。日本の失業等給付は離職の日以前2年間に、被保険者期間が通算して 12か月以上の雇用保険の加入が必要だが、アメリカは四半期でよいなど条件が緩和されている。また、申請も日本では窓口の手続きが必須ではあるが、アメリカは電話で申請ができる。また失業給付に該当しないひともコロナ禍ではパンデミック失業支援がある。新型コロナウイルスで失業または働くことができない場合は通常得ていた収入額に相当が50週給付されるのである。そのほか新型コロナウイルスに関する医療休暇が最大14週付与される法定されていたりと日本に比べて国がイニシアティブをとっていることがわかる。日本は母性健康管理措置による休暇取得支援助成金があるが、母子という家族関係の制約があり新型コロナウイルスに関する医療休暇に比べると使いずらい。日本の申請主義の福祉制度はかえってアクセサビリティを阻害しかねず、アメリカの電話一本で申請できる失業保険制度が輝いてみえるのである。