島内裕子著『響映する日本文学史』(二〇二〇・一〇/左右社)を読む

  本歌取りに代表されるように日本文学はパロディが多い。いや文学自体パロディ、リスペクト、アンチテーゼの積み重ねといっても過言ではない。島内裕子は時代を飛び越えて間テキスト性に触れる響映読みを提唱している。

 『古今和歌集』に関しては有名な冒頭の「大和歌は、人の心を種として、」を取り上げ、和歌は天神や地祇を動かし、勇猛な武士も心が鎮まると歌徳を平易に説明している。『三流抄』の一部で和歌で鬼を退ける逸話を紹介するなかで酒呑童子の成立の結びつきを述べている。徳川綱吉は『詩経』の分類であり古今和歌集でも用いられたの六義の分類が由来の六義園を造り、歌徳で天下泰平を維持しようとしたということである。初学者にもやさしい構成で、それぞれのトピックでもう少し掘り下げてほしいと思いつつ、『古今和歌集』から六義園へ展開するのは面白く、垣根を超えた文化という文脈で文学をみることができるのが響映読みなのかもしれない。

 その他にも多くの響映読みが示されている。三島由紀夫の『近代能楽集』は「葵上」が本説である。六条御息所がモチーフの六條康子と光源氏がモチーフの若林光の対話を繰り広げて愛と憎しみ、幸福と不幸、人生における真実は何であるかを暴き出す。さながらソクラテスのような『近代能楽集』の対話の連続と、「葵上」で六条御息所と光源氏が対話をしないことについて、もう少し考察すべきではあるが、本書では霊魂の奥深さが幽玄であり、また他者の心の奥を思いやる心も幽玄であると結んでいる。また、森鷗外『舞姫』のエリスの白い顔と、『源氏物語』の夕顔の君の夕顔の花、そして二人の恋の顛末を響映させたり、鷗外『青年』と『源氏物語』の「雨の夜の品定め」に通底する批評小説と呼べる様式を示唆している。

 なるほどと思わされるところと、迎えすぎではないかと思える印象が行ったり来たりしつつ、しかし響映読みは読書の醍醐味でもあり共感した。先述したが対話劇にはソクラテスが重なるし、短歌は遺伝子レベルで古典の影響が及んでいると思っている。堅い論文ではなく本書のように縦横無尽に読める文体のほうが苦手意識なく日本文学に触れられるのでいいかもしれない。また、本書で及んでいないところではフロイトやサルトルなどの人文科学から、ミルやマルクスのような社会科学も大いに文学に影響を与えており、響映させる余地があるということである。挙げていくときりがないが、そんな楽しむ余地を読者に与える一冊でもある。