山花集(「かりん」ニ〇ニ一・五)を読む

  長いコロナ禍のなかで小さな旅も憚られるような社会になったが、歌は日常からもつくられる。いや、日常の繰り返しのなかに訪れる変化こそ歌になるのだろう。また、閉塞感のある社会で楽しみを見つけるのも歌人は上手いのかもしれない。そんなことを考えつつ「山花集」を読んでいきたい。


  もう痛くなつてもいいよとさする腰 農の労働ささえたる腰 山本フサ

  枝すべて伐り落とさるる夢を見しまどろみに藤の花の匂いす 辻 聡之


 山本の歌は腰を体言止めで繰り返し詠み込んでいる。自らの身体に一部でありながら農業をともにしてきた相棒なのだろう。体が資本とはよくいうが、農業は中腰が多くより具体性をもって腰が農の道具にもなる。さて、いまでこそいいものを長く使うという価値観が出てきたが平成は使い捨ての時代であった。グローバルにいわれているサステナブルという価値観よりももっとヒューマンなものが、かつての日本、そしていまの農にもあるのである。そんな身体の歌を考えるときに辻の歌も面白く読める。連作で藤の花を自宅に迎えたことがわかるが、夢で枝が切り落とされてしまうという。藤に対する愛着は失なってしまう恐れが同居したものである。また枯れてしまうのではなく、伐られてしまうというところでも不条理さがある。夢の覚めぎわに藤がわれを起こすように香るのだが、夏目漱石『夢十夜』を下敷きにしているのかもしれない。そう読むと途端に耽美的な雰囲気になる。漱石は百合だったが藤もいいかもしれない。


  空き店舗にあれやこれやの雛飾り街ゆくだれもの〈女〉ふりむく 奥山 恵

  並ぶ席ふたつをあたため観る映画ひと粒の麦がをとことなるまで 増田啓子


 奥山は商店街の空き店舗に街の活性化で雛飾りを据えるところを切り取っている。空き店舗の時点で空洞化が進んできているところに、雛飾りを設置するという苦肉の策に社会的な目線がある。下句は、誰もが心のなかにあるアニマ的な女性性が、雛飾りに目を向けさせるということだろう。雛飾りの華やかさだけでなく、上句の商店街の現状も含めてふりむくのが〈女〉なのである。増田は下句が面白い。一粒の麦が男になるのは映画の内容なのだろうか。それにはどれくらいの年月が必要なのだろうか、水と日光で育つのだろうかといろいろ想像させられる。一方で、男イコール糧なのかとも思わされ、男性とはなにか考えさせられる映画でもありそうだ。