河合靖峯著、福田清人編『森鷗外 人と作品』(一九六六・一〇/清水書院)

  序文に文豪とは天才的な作家を指すのではなく、経歴の長さや、時代を代表する作品を多く持ち、偉大な人間性と高い見識を持っている人物のことであると書かれている。シェイクスピア、ゲーテ、トルストイなどが挙げられているが森鷗外もその一人である。木下杢太郎は鷗外をテエベス百門の大都であると表したが、まだ筆者は浅学にして一つの門も遠景に捉えることができない。本書は人文学系の入門書として有名なシリーズで鷗外事始めとしては適切だと思い手を取った。鷗外の一生を周辺の人物や時代背景とともに描き、また大逆事件のような大きな出来事においては紙幅の関係で、示唆にとどまっているが読者がたとえば『かのやうに』などの示唆的な作品に食指が動くように書かれており、巧妙さを感じる一冊であった。

 幼少期に漢学の素養が培われたことは有名だが、「平素実力を養つて置いて、折もあつたら立身出世しよう」という森家のエゴイズムなるものがあり、鷗外の精神形成に影響があったのは面白かった。典医の家系のため気位が高いだろうとは思っていたが、時代的にも家、血というものが強かったのだろう。学生時代の読書三昧寄席三昧、そして生涯の友となる賀古鶴所と緒方収二郎との出会いである三角同盟は『ヰタ・セクスアリス』に描かれており、本書も多く引用している。鷗外の実体験に即した小説として再読せねばと思わされた。その後『雁』のモチーフになる初恋があり、陸軍病院勤務になりと人生が進んでいく。『医政全書稿本』を編み実力を認められていくさまは軍医においてもディレッタントであることが垣間見える。その後ドイツに渡り衛生学を修めるとともにドイツ三部作の下地になる体験をする。ミュンヘンでナウマンが日本の文化をとぼしめる論文『日本列島の地と民と』に反論するのもハイライトである。その後ベルリンでコッホの衛生試験所で研究に従事する。衛生学だけではなく『日本食論拾遺』や、クラウセヴィッツ『戦争論』を歩兵大尉に講義したりと幅広い教養を深め、獲得していった。帰国後に『衛生療病志』を創刊し、日本の医学を文献研究から実証的な自然科学へとパラダイムシフトさせたのも大きな功績だろう。医学の文明開化も担っていたのである。帰国後は訳詩集『於母影』、坪内逍遙とのシェイクスピアの解釈をめぐる没理想論争、『即興詩人』など作品を書き上げるが、政治的に敗北し小倉へ左遷される。本書にはなかったが、博覧強記な人物で西方へ左遷されるさまは菅原道真を彷彿とさせる。そこで小説『二人の友』にあるような時間と精神的余裕をもってフランス語習得に励んだり、新たな友と交流しresignation つまり「あらゆる為事《しごと》に対する『遊び』の心持」を獲得する。ストイックに生きるだけではなく、小倉での余裕が自身を客観的にみる機会を与えたのだろう。その余裕が文体もやわらげ、晩年の歴史小説へと繋がったと示唆されており、鷗外を一人の裸の人間としてみたときに小倉左遷は興味深い出来事になるだろう。

 本書後半は代表作のあらすじと、その作品の文学的収穫についての章もあり、あまり作品を読まなくても、テエベスを遠くに仰げるあたりまでは案内してくれる。しかし、『ヰタ・セクスアリス』や『かのやうに』、『二人の友』などを読んでおくと解説と相まって鷗外像が生き生きとする。鷗外関連書籍は巷に溢れているが、本書はわかりやすく最初に読んでよかったと思う。