ネットプリント「夕星パフェ 第9号」一首鑑賞

 正月にゆったり家でお茶を飲みつつ、予め目をつけていたお正月番組をみる。概ねどこの家庭でも、何年も続けられてきた過ごし方だろう。筆者もそうした年末年始の在り方を愛する一人だ。時間があるせいか、ハレの気分がそうさせるのか、普段より短歌を楽しく鑑賞できるのも年末年始だと思う。普段は必要に迫られたり、疲労や睡魔と戦ったり、ストイックにやらなければやってられないことがあるからかもしれない。さて、そんな年末年始におもしろく「夕星パフェ」を読んだ。せっかくなので一首鑑賞をしてみよう。


   一階に布団を敷いて寝ていたころ私は地平の先まで行けた 枇杷陶子


 一階で過ごすこと、二階以上で過ごすこと、特に目がさえた夜は感覚が鋭く違いがわかる。たとえば下に人がいる感覚、風で建物が揺れる感覚、二階以上で寝ることは実は不自然なことで人間ならではという文明性を帯びている。一方で一階は地面の延長にあり、プリミティブな感覚が地平の先まで行けたという童心に繋がったのだろう。上句の字余りの〈ころ〉、結句の〈行けた〉といういい放つところで文体からも童心を感じさせる。一階と上の階層という対比だけではなく、歌意の思想性と文体や素材の素朴さという対比もみられる。


  流星群の見えない夜に降る雪に混じるだらうかきみの願ひは 有村桔梗


 流星群という詩的な言葉を見せ消ちにすると、読者の流星群の心的表象が宙吊りになり着地先を求めるようになる。読み進めると雪が出てくる。雪は白くひかり空から降ってくるので宙吊りになった流星群の心的表象のよい帰属先になる。ここで流星群が雪となり降ってくるという特殊効果のような変換が行われる。雪のようにうっすらと消えてしまうことも、流星群のように一瞬強い光を放ち消えるのか、何れにせよ美しくも儚いきみの願ひを考えている。


  暮れ残るあおい街並みのこされたものはあまねく饒舌である 道券はな


 「茶の湯展」という連作の最後の一首。のこされたものは街並みと読むのが順当だろう。茶器は長い時間を経て語らずに美を示唆するのみである。鑑賞者が展覧会に足を運んで出会うことで茶器と対話できる。街並みは喧騒とともに意味が溢れている、つまり饒舌なのだ。最初はこう読んだが、どうも落ち着かない。のこされたが、かなにひらかれているのが気になる。例えば遺されたと漢字を振ると饒舌なのは茶器のほうかもしれないからである。街並みが暮れてしまい眠りにつくなか、茶器は静かにしかし多くの歴史を語りかけてくる。そう読むと茶器は饒舌だ。何れの読みにせよ歌には詠み込まれていない背景であるはずの茶器の存在感が色濃く出ている。饒舌である。