岸本智典編著ほか『ウィリアム・ジェイムズのことば』(二〇一八・六/教育評論社)を読む

  かつてドイツで医学は発展したように心理学もヴントがライプチヒ大学で講義したのがはじめといわれている。その後世界の科学技術の趨勢と同じくしてアメリカに主導権が移動するのだが、その立役者の一人としてジェイムズがいると筆者は記憶していた。さてジェイムズは心理学の文脈以外でもプラグマティズムの文脈でも語られる。心理学に触れたことがないひとは、岩波文庫で『プラグマティズム』が出版されているので、哲学文脈で知っているひとも多いだろう。ジェイムズは心理学と哲学を越境し、構成に影響を及ぼした人物として捉えがたいが、本書はジェイムズの著作の要所要所を抜粋し解説を加えることで俯瞰して思想を追うことができるものである。


  意識というものは、断片的に小間切れで現れるものではない。(中略)それを記述する最も自然な比喩は「川」や「流れ」である。(中略)思考もしくは意識の流れ、あるいは主観的生の流れと呼ぶことにしよう。


 『心理学原理』からの引用である。主観的と言い直すあたりに心理学者らしさがにじみでている。ジェイムズ以前の心理学は統合よりは分析にベクトルが向いていた。しかし、ジェイムズは観念や表象の円滑なつながりに注目した。特筆すべきはジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフなどモダニズム文学の意識の流れに転用されたことである。心理学的なインパクト以上に文学的インパクトが大きいようにみえる。


  われわれは泣くから悲しい、叩くから怒る、震えるから怖いのであって、悲しいから泣くのでも、怒っているから叩くのでも、怖いから震えるのでもない。


 感情を身体変化に起源をもとめたジェイムズ=ランゲ説と呼ばれるものである。似たものに顔面フィードバック仮説というものがあり、近年メディアなどでみられる笑いヨガなどもその一つであろう。この説はいわゆる操作的定義にも通じるものがあり、プラグマティズムの発達とともに人文科学や社会科学が、記名・計測・統制や再現性といった科学らしさを獲得する過程のようにも読める。


  「真なるもの」とは、ごく簡単に言えば、われわれの考え方における都合の良いものにすぎない。

  「信念は真理であるから有用だ」とも言えるし、「信念は有用であるから真理だ」とも言える。


 『プラグマティズム』内の象徴的な二つの文である。都合のいいという言葉で実用主義と名付けられたが、筆者は「有効」という捉え方のほうが的を得ると考える。真なるものはポジティブなものだけではなく、ネガティブなものもあり、負(のベクトルで)有効であるということもあり得るからだ。都合の良いものという表現はわかりにくく多くの誤解を生じている。本書では例として時計やメガネなどの道具に向けられるのは誤りとしている。確かに時計は時間がわかり便利だから真だというのは身もふたもない。ジェイムズは都合の良いものとは信念や考えに対していうとしている。森で迷ったときに牛の足跡を見つけたときに、人家に通じているかもしれないと推測し、助かったという例をとると、人家に通じているかもしれないという推測が真なのであるという。つまり期待する(忌避したい)結果への到達をもたらす信念が真であると呼ばれるのである。

 上記の言葉にジェイムズのエッセンスが詰まっているように思えるが、他にも多くの言葉が引用されてジェイムズの以外と人間臭い面や、徐々にプラグマティックになる面が読みとれる。短い文章だが解説やコラムも面白い。プラグマティズムを知ることで理解が深まるのは文学や哲学、心理学的な側面だけではない。対人折衝や、企画・営業などの道具的思考が問われる現代のホワイトカラーや、医療福祉従事者にも恩恵がある。「今日手に入れられる真理で今日を生きなければならない。明日になればそれを誤りと呼ぶ心構えをしなければならない」というのはビジネス書に書いてあっても不思議ではないような標語である。また、臨床心理学では認知行動療法、社会福祉学では課題中心アプローチに影響を与えた思想でもあり、実証性のある短期処遇として今日多く用いられている。アメリカ的といえばアメリカ的なのだが、閉塞感のある世相をバサバサと整理できる思想でもあり筆者は好きなのだ。