大下一真歌集『漆桶』を読む

 歌集名ともなった『漆桶』は聞きなれない言葉である。漆の桶、仏具や高価な調度品であろうか。帯を読んでみると漆を入れる桶で「まっくらでなにもわからないことや、仏法についてなにもわからない僧、または妄想、執着の譬えである」と書かれている。そして表紙に漆黒で漆桶と書かれている。一筋縄ではいかない歌集のようだ。歌集の佇まいがただならない。


  「福寿草まだ出ませんね」「そうですね事情は特に聞いてませんが」

  紫陽花の首をはねつつこれがかの男ならばと思うてならじ


 圧倒されつつ読んでいくと、一首目のような歌は作者像と一致しており安心する。花の寺と呼ばれる瑞泉寺が浮かんでくる。檀家かもしれないし、訪れた歌人かもしれない。会ったことがある読者なら冗談めかした笑顔で答える大下の姿が浮かんでくるだろう。そして相手は気の利いた返答に、すごいお坊さんは違うな……と素朴な感想を抱くのだろう。二首目は心の声が漏れている歌だ。瑞泉寺には紫陽花が多い。様々な種類の紫陽花を挿し木で増やしているようだ。この歌も紫陽花の話などを酒の席でしているときなどに披露される小咄として読むのも面白い。


  或いはもっとも苦しみ多き生物としてヒトはあり服着て靴履き

  歳月はたとえばいつしか潮引きし広き渚にたたずむような


 仏教や人生に裏付けられた抒情も、自然とともにゆったりと詠われている。同連作中に蕗の薹の歌があるが、ひとは他の動植物と違い服や靴で覆われている。それは社会や立場を象徴するもので、毛や爪とは違う。そうした葛藤が最も多い生物だという。また、歌集全体を流れる時間が長い。それは鎌倉という風土や仏教という宗教文化も手伝ってのことだろう。次の歌は歳月という漠然とした概念を下句で映像的に表現している。ただの渚を想起するだけではなく、たとえば流罪にあった貴人のイメージを重ねてもよさそうだ。長い時間蓄積されてきた風土や文化、そのなかでの一回性のある生を考えさせられる歌集だった。何度読んでも新たな気付きがありそうだ。最後に恒例の好きな歌で締めくくりたい。


  千両も万両も実を輝かせ長者にあらぬ身は庭を掃く

  客殿に「千里同風」の色紙掛け千里の風をもてなしとする