佐佐木幸綱著『底より歌え 近代歌人論』を読む

  啄木、牧水、白秋、茂吉、夕暮、空穂、信綱などの近代のスター歌人の各論と、冒頭の「近代短歌のモチーフ」という近代短歌とはなんぞやという総論で構成されている。当時の歌壇の雰囲気や、執筆時の雰囲気を感じられる一冊で、タイトルの熱が近代と、昭和中期という文学が大きかった時代感があるのも印象的である。「近代短歌のモチーフ」は、近代短歌とは一体何だっだのかという問いが現代短歌に関わるわれわれにとって重大な問題であるという文章から始まる。多くの歌人論や結社論はなされてきたが、あまり近代短歌の全体像が語られてこなかったこと、現象としての近代短歌に興味を持ちすぎて、モチーフとしての近代短歌の興味が薄かったことを問題提起している。


  乎久佐壮丁《をくさを》と乎具佐助丁《をぐさすけを》と潮舟の並べて見れば乎具佐勝ちめり


 万葉集から上記の歌を引用して、島木赤彦が『萬葉集の鑑賞及び其批評』で音調が無邪気で歌における写生の極致は斯るとことにあると激賞しているところを、おやっと佐佐木は思う。赤彦の解釈だと東国の少女の作で、小草村いう村で乎久佐壮丁と乎具佐助丁という男が少女に言い寄るという場面を設定し、真摯な少女の素朴で直接的で無邪気なリズムがあるというのである。折口信夫は二人の男の争いを少女が苦しんだという物語から生まれた二次的民謡としており、土屋文明も同様の見解を示している。佐佐木は赤彦の激賞を、赤彦のテーゼである鍛錬道もあるが、個人の直感が信ずるに足る、直感が絶対でありえるという認識が根底にあったことに因ると述べている。佐佐木の赤彦解釈について考察は、西洋のエスプリが近代の日本に流入し自我が文学(文学という考え方が近代以降のものという言説もあるが)に組み込まれるようになったという近代文学全体の状況とも通じるものがある。短歌はそうした文学的空気の中で古典に一度立ち返りながら、近代短歌を形成していったともいえる。本章ではその後和歌革新運動にも触れる。確かに万葉集の解釈よりも「歌よみに与ふる書」や「新詩社清規」から旧派新派の対立構造をみたほうが明確であるし、そこから近代短歌を定義するほうが一般的ではある。


  あたらしき年のはじめとわが庭をつくりかへけりけさの白雪 樋口一葉


 しかし、佐佐木は作品から近代のモチーフを読み解いていく。旧派和歌の例として樋口一葉の作品を挙げ、一葉の和歌は個別性を注意深く消していると読んでいる。引用歌では庭の描写がそぎ落とされているし、〈あたらしき年のはじめと〉などは間接的な表現で抒情が抑制されている。その他前後する歌も推量を用いるなど、直感をそのまま信じ作品化することはなかったといっている。近代短歌をアララギの写生や明星のロマンティシズムというテーゼ的な捉え方から佐佐木は一歩進んで、長い年月和する歌としての和歌から、自己実現の形式にどう捉えなおすかが和歌革新運動の中核的な問題だったと指摘している。

 各近代歌人論も面白い。牧水は旅と酒という俗世間から離れるような嗜好をもち、また作中に鳥が多く登場することなどを踏まえ、牧水も歌により飛翔したかったのではないかと論じる「歌は翼 若山牧水」。近代のリゴリズムに距離を置き、自由詩から次第に短歌に力を注ぐようになった白秋を論じた「詩型に殉じた近代 北原白秋『桐の花』断想」など、作品の魅力を引き出す鑑賞と、批評性が両立した評論が多く収録されている。とりわけ切り口が面白い。例えばかつて佐佐木が歌壇のボーダレス化を「歌壇カラオケ状態」と言い得て妙に批評した切り口が近代短歌論にもみてとれる。各近代歌人論の結語に言い得て妙な感じがあるのである。

 本書を読んで、再び筆者は近代とは何かという佐佐木の問いに立ち返る。本書が書かれていたときは近代短歌はひとつの権威でありえたようだが、昨今の歌壇ではどうか。一葉の和歌が現代歌会に出されたら、庭の描写やある卒なさが指摘されることもあるだろうが、案外普通に受け入れられてしまうような気がする。現代短歌においては短歌における私性に何度も議論がなされ、近代の作中主体イコール作者(これもそうでもないという論が濃厚だが)は解体されているというのもひとつだが、もうひとつ近代短歌が権威として機能しなくなっているということもあるだろう。近代短歌を権威化したいわけではないが、断絶や空洞化も避けたい。それは近代短歌人が西洋のエスプリを吸収しつつ多く近世、古代を研究も行い近代短歌を確立していったという遺産があり、近代短歌を顧みることが現代短歌に関わるわれられが短歌史にアクセスする一つの結節点になるからである。筆者が近代短歌論集である本書を手にしたのは、現代短歌が無自覚に旧派和歌返りすることへの危惧が無意識にあったからかもしれない。