窪田空穂の歌一首鑑賞1

 ■『まひる野』


  来ては倚る若葉の蔭や鳥啼きて鳥啼きやみて静寂《しゞま》にかへる


 春から初夏にかけて筆者の庭にも鳥がよく飛んでくる。最近の研究で鳥にも言語があるという。朝は特に仲間に語りかけるように啼いている。長さ的に朝のスケジュール確認や点呼などかなと思い聞いていると、しばらく鳥同士で啼き交わし立ち去る。この歌もまさにそんな季節の歌だ。鳥が何度も来る様子は〈来ては倚る〉の〈は〉という構文から感じとることができる。また、下句のリフレインも鳥が啼くことの反復性を表している。若葉の蔭は季節性のある景色を演出しているだけではなく、鳥が初夏に仲間に語りかけるように啼いていることを暗示している。通常は鳥の鳴き声について詠いたくなるのだが、静寂で歌を締めるところが如何にも空穂らしい。『まひる野』はロマン派の影響がみられる歌集だが寂びのあるまとめ方は、ロマン派とまた違う文学性がある。どちらかというと自然主義や心境小説のリアリズムがある。後に「文章世界」に寄稿するが、『まひる野』からその萌芽があった。


  雲よむかし初めてこゝの野に立ちて草刈りし人にかくも照りしか


 庭があると草刈りは初夏から秋にかけて毎週以上にやらなけれなならない仕事だ。筆者はねじり鎌、草抜き鎌、剪定鋏を基本道具として草を刈る。ささやかな道具も適材適所でハマると威力を発揮しするのだが、那智黒石の合間から生えてくるドクダミやカタバミ、ヤブカラシはなかなかいい対処法が見つからない。さて、そろそろ歌を読まなければ。初めてここの野に立った人に思いを馳せるのは唐突な感じがする。雲に呼び掛ける初句、そして草刈りという特定の動作、空穂が草を刈るなどしていたのだろう。東京はかつては荒れ地であって、人が住むには草を刈らなければならない、そんなことをぼんやり考えていたら、雲がやけに明るいのである。草刈りをすると集中するか、とりとめのないことを考えながらするかで、魂を遊ばせることができる。そういえばヘルマン・ヘッセも『庭仕事の愉しみ』というエッセイ集でこうした草刈りの効用を述べていた。


  春の夜《よる》老いにし女《ひと》の化粧して花にあゆむをあはれと眺めし 


 春の夜は耽美的な場面設定である。老女が化粧をして、花のほうへ歩むということで、どのモチーフも美しさを詠っている。老いは美醜でいうと通俗的には醜になるのだろうが、空穂はあはれといい、老いにし女の人間的な美しさや、化粧するという心持ちに艶やかさを見出だしている。「明星」を後にした空穂の美的感覚をここにもみることができる。昨今、高齢者に対するレッテルであるエイジズムがあり、そのアンチテーゼとしてサクセスフルエイジングという言葉がある。健康寿命を伸ばしつつQOLを向上させていくことであり、サクセスフルエイジングが叶う人は経済的にも文化資本的にも恵まれている人に限られる。また福祉財政の軽減や、健康な人の視座からの或る規範が見え透いており筆者はサクセスフルエイジングという言葉にあまり乗れない。引用歌のように美的感覚で老いを捉えることは文芸特有であり、老いの新たな一面を照らす。老いを社会問題として考えてしまうような政府とは一線を画す。とまぁここまで読んだところで、花が花街ということだったらどうしようと思い始める。


  鉦鳴らし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか


 母の挽歌は多くの歌人がつくるだろう。特に近代の男性歌人にとっては大きな主題といってもいい。特に母の慰留を押し退けて上京し、母の病状悪化にともなって帰郷した空穂にとって母の最期の時間は後悔が多かったに違いない。母との思い出は故郷である信濃の国の風景と不可分なもので、鉦を鳴らし歩いていると、母のかつての記憶がよみがえってくるだろうという歌である。鉦は鐘楼のような大型なものではなく小型の鉦で、僧が鉦を鳴らしながら親族が寺や墓地を移動する光景を想像した。親族がそろって歩いていると、多くの〈ありしながらの母〉が語られる。行き行かばの反復にそこまでの複数性を見いだすことは難しいが、気分として行き行かばにより、〈ありしながらの母〉のイメージは複数でもおかしくないように読める。一族が集まって、法事を滞りなく済ますことが、核家族化し多死社会化した現代では目にしなくなってきている。荼毘のみの葬祭プランや、永代供養が主流となってきているなかで引用歌は近代的な光景である。多くの人が時間をかけて、或る場所を廻りながら故人を偲ぶとき、よりじっくりと故人に向き合えるような気がする。


■『空穂歌集』


  夏の雲われらが上にかがやけりそを恍として仰ぎける日よ


 清々しい情景の歌。われらがという主語が前向きというかとても陽気で、輝く夏の雲もまた明るい。夏の雲は微妙にかたちが分かりにくいが、大きな入道雲をイメージすると歌の雰囲気に合う。それを恍惚に仰ぐのは少年期の夏休みの思い出に浸るような気持ちだろう。ここまでは気持ちよく読めるが、仰ぎ“ける”の詠嘆しつつ過去なところに屈託がある。もう恍惚と夏の雲を眺めることがなく少し醒めた、世間に擦れたわれがいる。ロマン主義に別れを告げて写実主義、自然主義に移る心持ちも反映しているようにもみえる。ここで、〈われら〉の主語の大きさに立ち返ると、ロマン主義から写実主義に潮流が移っていく文壇や時代の雰囲気を詠った歌なのかもしれない。思いっきり清々しく詠みつつ、鋭い視点があるこの歌をつくったときの空穂はきわめて真顔だったのだろうなと思う。


  蒸れくさる蚕糞《こじり》のにほひ、ものうげな馬の嘶き、村は夜に入る。


 養蚕や農耕で生活が成り立っている農村を詠っており、昼間は労働が満ちている空間だが、夜になると嘘のように静まり返る。蚕糞の臭いは夜空気が澄むにつれて一層輪郭が増すだろうし、馬も夜になると嘶く余裕がでる。村人は寝入っているか、夕食にありついているか、いずれにせよ明日のために鋭気を養っているのである。村は夜に入ると結句にもってくることで、ある静けさにより村は夜、すなわち労働から解放されると詠っているのだろう。空穂はしばしば民俗学的な素養をのぞかせる。数多くの古典註釈をしているのでそれもあるのだが、故郷の松本には長塚節『土』のような農村風景があったのかもしれない。今日は農村の暮らしや里山はエコツーリズムに取り上げられるなど、自然と共生しているなどと報道されているところを目にするが、当時はもっと激しい労働と貧苦があったのだろう。


  何といふ清さぞここにある見れば牛の糞《ふん》それもみにくからぬかな


 牛の糞はきれいか汚いかというと汚いとまず答えるだろう。牛の糞が醜くないと思える清さは、美醜を超えて自然を見ることである。近代以降に西洋文化とともにインテリジェント・デザインとしての自然観が根づき、自然は美しいという認識が一般的になった。〈何といふ清さぞ〉という詠嘆はそうした認識を一新し、美醜を超えて馬の糞であっても醜くなく、美しくもない糞という実在が先立つことを認識したものである。韻律面からは区跨がりが二ヶ所あり、跨がるところで節がつきうねるようになっている。下句は字余りがあるがリズムよく重くならない。


  犬あまた飼ひて暮せる独りもの、老いし大工の吉《きち》が歩み来。


 空穂は他者を詠んだ歌が多い。大工の吉は歌の通りで個性が強く、その人の雰囲気に感動して詠った。犬をあまた飼うのも、独りものなのも、老いるのも生理的、心理的に繋がっており、哀愁が三重に詠われている。この歌は吉に対してマイナス面に視点を当てて詠んだわけではない。三重の哀愁でも吉に何か見逃せない人間的な凄まじさがあるということだろう。しかし、どう凄まじいかは歌のなかでは語られない。むしろ一見、吉の凄さはわからず、哀愁帯びた老人程度しか周囲の人からみられていないことを、あえて語らないことにより表現している。年齢に対する偏見であるエイジズムは社会に蔓延っているが、社会的な視点でラベリングしてしまうゆえに生じる偏見である。吉もエイジズムにさらされかねない人物で、実際いわゆる世間からそのような扱いを受けているかもしれないが、空穂はエイジズム的な切り口を読者に見せつつ、逆説的に全人的な視点を提示した。