安立清史著『福祉の起原』を読む

  新型コロナウィルスや、ロシアによるウクライナ侵攻で世界規模の危機が訪れている昨今に書かれた、社会福祉学の専門書として興味深く読んだ。序文で「私たちどこから来たのか、私たちは何者か、私たちはどこへ行くのか」とポール・ゴーギャンが楽園だと思っていたタヒチに病苦と貧困が溢れており、自殺を考えたときに描いた絵、言葉を引用して、先述の出来事で閉塞感漂う現在について考えることの問題提起している。第一章ではアンソニー・ギデンズらの「福祉の戦争起源説」を紹介している。社会福祉は近代国家において兵役とセットで恩給や年金などの経済的な社会保険制度が整備され、また、相談支援や直接処遇においては傷病軍人の増加に対してリハビリテーションや障碍者福祉制度、孤児に対して児童福祉制度が整備された歴史がある。歴史的にみると起源、つまり源流的な史観である。本書の起原は源ではなく原である。その時代をなんらかの福祉の起点とするという史観だ。福祉の起原もあれば、ショックドクトリンもある。昨今の閉塞した時代を起原として、これから生まれうる福祉を論じたいというのが趣旨でもあるようだ。

 福祉の戦争起源説と対照させて、マルセル・モースのいう『贈与論』、深田耕一郎『福祉と贈与』を引用し、福祉に贈与するされる側の逆転がみられると述べている。脳性麻痺の障碍者である新田勲を介護する深田のケアの展開やそこからみられる「福祉という闘争」に巻き込まれ、「贈与による支配//支配という贈与」が拒否されることを深田はケアを通して自覚していく過程を、「相互贈与としての福祉」にであると安立は述べている。話としては共感を覚えつつも、双方贈与のベクトルが行き交う相互贈与の関係が真実の姿なのだろうか。「福祉という闘争」という混沌とした元の表現の方が生のままならなさに近く、贈与論(そもそも贈与論の贈与は相互性をもつ)を引用すると却って定式化してしまうような気もした。また、新田から深田に何を贈与したのかの言及がなかったのもイメージしづらかった。安立の指摘する、福祉国家の行き詰まりの指摘は尤もで、筆者はネグリ、ハートのマルチチュード方面で捉えたほうが納得感がある。

 「宅老所よりあい」という認知症高齢者のデイケアのはしりの事例紹介は介護保険制度以前の話で福祉の起原である。いまではもう使われない言葉である宅老所だが、老いても住み慣れた地域のなかで暮らし続けるということが理念で、いま聞いても古びた感じがしない。さて、よりあいとはお寺の寄合のことで、ある高齢者が自宅の生活に支障が徐々に出てきたときに、発案者がお寺の寄合があるので来てくださいと誘ったことで、宅老所へ通所が実現したという。安立は内と外の論理、つまり介護される側とする側の論理の見事な交差点と述べている。介護保険制度は医療保険に習った形式で制度設計が先だって心理社会面は現場に丸投げされている。本書のように起原に立ち返ると改めて社会資源の本質を理解できる。安立は介護の社会化のさきに「宅老所よりあい」を再度置き、家族が外部に放出した介護を小さくとももう一度問い直す意義を提起している。

 ロシアによるウクライナ侵攻については安立は加藤周一を引用しつつ、一九六八年のプラハの春で、旧ソ連軍がチェコスロバキアに侵攻したことを類想している。その際、チェコスロバキアでは武力的な反発は極力控えられ、旧ソ連の過ちとチェコスロバキアの民主化の正統性を説く放送、新聞が中欧中に巻き起こったという。戦車に対して言論で対抗したという歴史はいまウクライナでは繰り返されず、戦車に対して戦車で対抗している。安立は西側諸国の民主主義、資本主義の衰退、「成長の限界」が囁かれている時代に、プラハの春のように西側の“正しさ”を主張しにくくなっていると指摘している。報道では資源の問題やNATOなど、背景に地政学的要因があるということはよく取り上げられるが、そうした福祉史観の移り変わりや、ポスト真実の時代観も象徴しているのかもしれないと思わされた。戦争に対して安立は宮沢賢治『銀河鉄道の夜』、宮崎駿『千と千尋の神隠し』、ジョン・ロールズ「無知のヴェール」が有効な考えだとする。「無知のヴェール」とは人々が選択するときに、目の前にヴェールがかけられていて、自分や他人の条件がわからない状態を作りだし、その上で好ましい選択をすることが正義であるという思考実験である。自他の利害関係にとらわれずに政策決定したり、公正、公共を考えるときの方法論である。『銀河鉄道の夜』と『千と千尋の神隠し』は両方とも電車に乗る場面がある。しかも、いずれも死者も同乗し、主人公も苦悩や喪失経て当該場面に至っている。その電車と「無知のヴェール」どのような関係があるのだろうか。電車は近代の象徴である。そして、『銀河鉄道の夜』のジョヴァンニも『千と千尋の神隠し』の千尋も現実から遊離している場所におり、そこには死者がおり、『銀河鉄道の夜』では対話もできる。ここに安立はまだ生まれてきていない未来の生者も加え、こうした場面は奇しくも「無知のヴェール」につながるという。『銀河鉄道の夜』や『千と千尋の神隠し』がロールズをやや更新させ、今日から福祉に必要な考え方であると安立は指摘している。文化芸術から福祉に光を当てるとまた違った景色がみえるだろう。しかし、文化芸術は基本的には平和や善なるものを望んでいるだろうが、道徳や倫理学ではないので、善悪の彼岸に存在している。本書後半で『千と千尋の神隠し』の湯屋はブラック企業で云々と書かれていたが、湯屋にいるのは神をもてなす神や人ならざる存在たちで、作品と労働問題を結びつけるのは福祉的な考え方にとらわれすぎている。では『紅の豚』の工場で働く女たちは、強権的な工場主から搾取されているのかとも思われてしまうが、そうではない。宮崎駿はそう見えないように台詞や表情で、労働による自己実現を描いている。本書に引用された文学作品に果たして安立の意図した要素があるか、恣意的な引用なのか、それはもう少し検討が必要だ。