短歌繚乱 文学フリマ東京に参加して

 二〇一八年五月六日に流通センター駅で「文学フリマ東京」が開催された。私は今回は出店者側として参加したのだが、いくつもの好きな歌にであった。
 まずは「ぱることいせたん」から。井上久美子さん、遠藤由季さん、富田睦子さん、物部鳥奈さんが出された「たのしくまじめな新聞」だ。生れ年が同じということで集ったメンバーとのことだが、かなり読み応えのあるメンバーが集まっている。作品と、世代を象徴する一首と、文明評的なエッセーが掲載されている。今回は各連作から一首ずつ引用して、鑑賞していく。

  9回裏スリーベースを踏んだまま少年画面に区切られており /井上久美子「ぱることいせたん」#1

  ごろごろと実の残りいる苺ジャムならば食べるが、甘すぎるなよ /遠藤由季 同

  崩したる「ら」の字は少女のかたちして丸みにプリーツスカート纏う /富田睦子 同

  指先の痺れにひらく手のひらは終焉の扉《と》に触れる感触 /物部鳥奈 同

 井上さん作品について、子どもの一瞬は大人の一瞬とは違う。うつろう輝きの象徴的な場面だと思う。画面にも、われの視点にも、少年にもその刹那は長い時間をもつのだろう。二首目の遠藤さんの歌では、苺ジャムは甘く、また苺は形状が愛らしい(とされており)ので雑貨の柄にもなっている。そんなカワイイ苺に距離を置いている。苺に「かわいいか」と疑問を呈する歌も過去に詠んでいる。富田さんの歌を読んで「ら」の字は歌のとおり、確かにそうだと思うかたちだ。歌うときも「ららら」と言うかもしれないし、プリーツスカートが空気を纏う軽やかさも、「ら」的だ。物部さんの歌を読んで、ふとベートーヴェンの『運命』は運命の扉を敲く音だということを聞いたことがあることを思い出した。終焉の扉に触れる感触は痺れていて、冷たい(血行が悪くなってるとすると)わけだが、終焉は予期できず、それでいて冷やかなのだろう。読者は終焉の感触をイメージできてしまう歌。
 「ぱることいせたん」は同人誌「66」のメンバーが四分の三を占め、「66」を手にしたときの本気の遊びといった感覚を思い出した。エッセーで引かれている歌も栗木京子や加藤克己など知る人ぞ知るといった歌人で、作・論ともにキャリアを積んだ歌人が好きなことをするとこのような誌面ができるのだろうなと思った。
 
  ゲネ・プロはドイツ語 ソワレはフランス語 舞台の幅は尺にてはかる /太田青磁「青磁の器」

 短歌人所属の太田青磁さんが個人誌「青磁の器」を出していたので、購入した。ツイッターなどで一首単位で歌は読んだことがあったが、まとまった形で読みたいという思いで、すかさず購入。娘さんが描かれた、青磁の器のフチに少女が腰掛けている表紙がかわいらしい。二つの連作が掲載されており、その他に評論や書評などの散文が掲載されている。引用歌は連作「ステージのベル」のなかの一首。オーケストラは西洋のもので、楽器だけでなく用語も混在しており、日本のシンクレティズムをあらわしているようだ。結句が面白いし、跳ねるようなリズムがいい。

  エゴの木の花の白さを告げながら奥歯の奥の奥のくらがり /辻 聡之「春の文フリ特典(石井さんの歌集批評会の帰り道で作った5首)」

  花蟷螂のごとくに花壇に腰掛けて雑踏の中のあなたを探す /桜望子「春のための鎮魂歌」

  しゃぼん玉生まれるたびに死んでゆくうつり込みたる街もろともに /濱松哲朗「ないしょの手紙」第7号

 辻さんのフリーペーパーはタイトルが非常に長い。そして、前日の批評会の帰り道に作品を作り、印刷して持ってくるという仕事が素早くまさしく表現者だなと思った。表題歌も好きだったのだが、それを引用すると、ミステリー小説の犯人を言うような罪悪感に駆られるので、その次に好きな歌を引用した。エゴの木の白と、くらがりの黒。純粋さと、自我の対比が際立っている。エゴが掛詞になっており、「奥歯で噛みしめる」という言い回しの先の表現が巧み。桜さんからもフリーペーパーを頂いた。表題も他の歌も美と死がひとつのモチーフなのだと思う。上句の直喩が好きで、花のようでも花になれずに、そして最終的に雄を食べてしまう、痛切さを読み取ることができる。そういえば人生で二度目のサインを書いた。一度目は結社のベテラン歌人で、かりんの若手として書いた。小さく自分の名前を。二度目は文フリで桜さんに。さらさらと書いた。いいんです、短歌をする人としての私の名前はさらさらっとで。濱松さんからもフリーペーパーをいただいた。鷺沢萠ノートは精密な文学論なのだが、作品を読んだことがなく、いつか読んでみようというのと、書き方はやはり勉強になるなぁという視点で読んだ。裏面に短歌連作がある。街が壊れる景色はボスの絵画やサイバーパンクを想起しがちだが、しゃぼん玉のような柔らかい消滅は珍しい。ぱちんと割れてまるで夢だったというように都市が消えるのもいい消え方かもしれない。

  一瞬や、我炸裂し、炎なり。はた 散りぼへる飛行機の──空 /釈迢空『天地に宣る』

 唐突だが、合間に迢空を読んでいた。この一連は表現が尖っている。引用歌などはわれが炸裂弾になっている。全身が炎になったのは戦争の被害の激しさと悲しさで炎のように燃えたち、いずれ燃え尽きてしまうような心持ちなのだろうか。〈はた〉で接続されているが下句も飛行機が散らぼうという、そしてその飛行機の空という、飛行機と空の主客が逆転しているような歌なのだ。シュルレアリスム的な世界観だ。
 さて、お昼ご飯はターリー屋さんというインド料理屋さんが会場にお店を出しており、それを購入した。タンドリーチキンカツ入りのキーマカレー弁当を食べた。タンドリーチキンはさらにフライになっており、カレーに絡めてもよし、そのままでもよしの美味しい。食後は流通センター周辺を散歩する。缶コーヒーのお供に、桜の実を何粒か摘んで食べる。躑躅も満開状態で読み倦ねたときの三歩に最高だ。躑躅は最近有り様が好きで、生け垣や、仕切りに使われつつも時期になると大きな花を開く。それも桜のような密度ではなく、ポツポツと花を咲かせる。そうした、実務能力の高さと、でも観賞用でもあるという慎ましさに好感を覚える。
 さぁ次は文フリで何を読み、何ができるだろう。

このブログの人気の投稿

睦月都歌集『Dance with the invisibles』を読む

濱松哲朗歌集『翅ある人の音楽』を読む

後藤由紀恵歌集『遠く呼ぶ声』を読む