夏と秋の境に二題

  死霊

 埴谷雄高の『死霊』で三輪高志は幽霊をみるという。病床で寝ている往年の革命家三輪高志の元に亡くなった同志や、知らない人までも夜な夜な現れるのだ。作中の独自の概念である虚体が解き明かされていく後半になると幽霊はさらに広がりを持っていくが本文では割愛する。河合隼雄や吉本隆明などがユングのシャドウと結びつけてどこかで論じているような感じもする話だが、筆者はシャドウを想起した。

  くらやみに燠は見えつつまぼろしの「もつと苦しめ」と言ふ声ぞする /宮柊二『小紺珠』

 この歌をみかけたときに想起したのも先の幽霊だ。シャドウは過去にも未来にも存在して、誰よりも自分自身に関する理解と無理解をもって、ところかまわず迫ってくる。バージニアウルフの『ダロウェイ夫人』のセプティマス・ウォレン・スミスは従軍経験から心を病んでいるが、死別した友の亡霊に苛まれている。対話したり、罵ったり、ときに詩的なことを呟いている。そして人間のファウナ的な部分を呪いもする。『死霊』の三輪高志の弟の與志も同じく自らの肉体に違和感を感じ食事を拒む場面がある。こうした感覚は覚醒して感得するものなのか、誰もが元から持っているが無意識に抑圧しているものなのかわからない。引用歌がどこかそうした感覚があるように思える。それは宮とセプティマスの従軍経験の共通項であったり、『小紺珠』が一九四八年刊行で『死霊』が一九四六年から「近代文学」誌上に掲載ということから同時代の精神史的なものを考えるからかもしれない。こうした内省的な自己の掘り下げ方は坂口安吾の「デカダン文芸論」にもみられ、ここまで作家がそれぞれの作品で実践していると、自身を生き切った作家のストイシズムを思い知らされる。幽霊が夜な夜な現れるのは御免こうむりたいが、燠からうたごころが現れて「もつと苦しめ」などと迫ってくるともっと歌をつくれるかもしれない。

  ミネストローネ

 世界初のインスタントラーメンは日清食品のカップヌードルである。カップヌードルの歴史についてはあまり詳しくないが、ファンは多くいることは考えるまでもない。
 本文ではカップヌードルBIGサイズの、カップヌードル、シーフードヌードル、カップヌードルカレー、カップヌードルチリトマトを食べ比べ、印象批評を試みた。
 実験は昼休みを利用し、休憩室で行った。実験参加者は三十代男性の一人。婚姻歴はなく日頃インスタント食品には食べ慣れているが、カップヌードルファンではないため本実験の参加を依頼した。手続きは上記カップヌードルをランダムにそれぞれ食し、そのときの直感を元に多角的に評価して順位をつけていく。
 結果はカップヌードルチリトマトが一番美味しいと感じるという結果になった。今回は実験参加者が最初にシーフードヌードルを食べ、その後カップヌードルチリトマトを食べるところで、カップヌードルチリトマトが一番美味しいと宣言して実験終了してしまったという瑕疵がある。しかし、食べ終わったところで宣言したところに着目すると、スープに大きな因子があることが示唆される。例えばシーフードヌードルはスープとなっては旨味たっぷりのちゃんぽんの残り汁である。カップヌードルはカップヌードルの汁としか形容できない。その中でカップヌードルチリトマトは、唯一別の料理名であるミネストローネと形容できるのではないだろうか。それに鶏ガラの旨味が、ミネストローネと宣言するときにチキンブイヨンと再認識される。そうしたところで他商品との差異がみられ、チリトマトが最高であるという宣言に達したのだと考えられる。本実験ではカップヌードルカレーの考察が不十分である。誌面の都合で割愛するが今後の課題といえよう。

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