ベッドタウンについて考えたこと

  都心に行くと感じるのは若者が多いということ。陳腐な感想だがコロナ禍下は極力移動を控えていたし、出不精に拍車がかかり、五類になってからも遅くまで都心に滞在したり、居酒屋などの喧騒を避けたりしていた。最近しばしば都心に終電間近まで滞在するようになったし、赴く駅のバリエーションも増えてきた。会合には数時間早めに最寄り駅に付き付近を探索する。大名屋敷の跡地や文豪の旧居跡が意外に多く見つかる。大抵は看板だけなので、解説を読んでから記録に写真を撮る。後はすることがないので、チェーン店のカフェかファミリーレストランを探す。休日のオフィス街ほど閑散としているところはないのでゆっくりと本を読み飲食ができる。否応なく周りの客の話していることも耳に入ってくるもので、子どもや孫の進学のことや、自営の会社のこと話題が多い。地元では介護や病気の話題が一番多い。また医療や介護に携わる人が多いので、現役世代であっても介護や病気の話題が多くなる。いざ身をもって実感すると鮮やかに対比されるものだと思った。同時にベッドタウンと呼ばれる郊外はベッドたり得ているのだろうか。かつては都心で働くサラリーマンのベッドであったが、いまや高齢者のベッドなのではないかと思った。

 日付を跨いで地元駅に帰ると、出口毎に人の流れは減っていき、最終的には二、三人ほどになる。それぞれ深夜の倦怠感を身に宿し、しかし足早に歩みを進める。灯りは街灯と住宅の外灯しかなく、車もほぼない。歩道橋に昇ると辺り一帯が夜の静けさに包まれている。町全体が寝息を立てているようでもある。都心は終電間近でも客引きがカラオケや居酒屋を勧め、数人のグループが店へ消えていく。多少店の看板も暗くなるが、街全体が明るい。地元に帰ると夢のようにも思えるほどのギャップがある。ベッドタウンとはいい得て妙な言葉。その名のとおり静かで良く眠ることができる。

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